+ 最愛 前編 +   夫婦期

 

 

 

 

 

こんなこと小説やドラマでしか起こりえない、と思っていた。
でも現実、それは郁の目の前にふっと湧いてきた出来事。


『堂上が弾を避けた反動で階段から転げ落ちた』
無線から誰かが報告を入れる声が途切れ途切れに聞こえてきた。知ってる、だってバディだったから。
目の間に教官はいた。
その抗争の中、良化隊は二方から襲撃してきた、というのが当初の判断だったが実は三方だった。囮の二チームにだいぶ遅れてもう一チームが入り込んでいた。
それに気がついた郁と堂上は慌てて階段を駆け下りる良化隊員を追いかけた。その時、下しか見てなかったので、一人見張りで残っていた良化隊員が上から発砲してきたことに気がつくのが遅かった。

パンパーンッ!!!
軽めの銃声が響くと同時に郁は堂上に押し飛ばされ、踊り場に伏せた。その反動で堂上は階段側にバランスを崩して----------約20段もの階段を不自然な形で転げ落ちた。
「堂上教官!!」
耳元で無線の応答が飛び交っていたが、内容は郁に耳には全く届かない。あるのは目の前の事実だけで。
階段下で微動だにしない堂上を見て、郁はただその場にしゃがみこんだ。




◆◆◆




被弾はしていなかった。意識も数時間したら回復して検査に回された。
だが、堂上は全身打撲だけではすまず・・・ある時期の記憶を無くしていた。
脳に異常はないから、一時的な物だと思うがいつ戻るかはわからないという。


堂上は郁と結婚したことを全く覚えていなかった。
だが、郁のことは知っていた。駆けつけた小牧が本人と記憶のすりあわせした結果---------おおよそ郁が入隊して一年目の終わりあたりから、今までの記憶がごっそり抜けているらしい。
記憶の中で堂上は二正のままだった。だが当の本人は既に一正、部下で妻の郁は一士で入隊してすでに三正。どれだけの歳月とドラマが二人の間にあったのか。

嫌われていた記憶はあるが、愛し合った記憶がない。

堂上の記憶の中ではそんな間柄でしかないのに、夫婦だという。ちょっと待ってくれ!どういうことだ?!という心境なのだが、現実的をみれば夫婦であるということは官舎で暮らしているわけで--------とどのつまり、堂上の帰るところは郁と暮らす官舎しかなかった。
結局、検査や様子をみるためにと数日は入院したが、身体に異常がないためいつまでも入院しているわけにも行かず、基地に戻ることとなった。



そして夫婦だという記憶の無いまま、二人の夫婦生活が始まった。





◆◆◆






あたしの事を思いだして欲しい。
だけど『早く思いだして』なんてそんなプレッシャーを与えてはいけない、自然に、普通に生活しよう。



新しく始まった夫婦生活は、ぎこちない共同生活みたいなものだった。
食事は早く帰宅した方が作る、ほかの家事はやれる方がやる。結婚して官舎で暮らし始めた時に自然にできあがったルールだったと郁は説明したが、郁も堂上もそれぞれ違う意味で気を遣う。
郁は何も解らない堂上に負担をかけてはいけない、と気を遣い、堂上はごく自然に家族の会話を紡ぎ出す郁との関係に気を遣う。

堂上の記憶の中では夫婦どころか、恋人同士でもない、つまり男女の間柄ではないのだからと、別々に眠ることを当然とされ、郁も了承した。
それ以外はいたって普通の夫婦生活、いや共同生活を送っているように見えた。
別々の仕事をしていた日は、郁の身に起こったちょっとした話だったり、同僚から聞いた話だったり。
ときおり本の感想を述べ合ったり、話題の映画の話をしたり。

数ヶ月もすれば、なんとなくプライベートでもうち解けていき、家の中に笑顔はあった。
だが、それは虚空な微笑みで、笑い声で。互いにそれに気づいているのにあえて口に出すことはなかった。



そんな共同生活が始まって3ヶ月。
おもしろいテレビをみて爆笑しているはずなのに、旨く笑えてない、声がでない。
乾いた笑いを零しながら、出たのは郁の頬を伝う涙だけだった。



------------もう、無理みたい。





◆◆◆




記憶のない堂上と生活を始めた頃、何気なく『篤さん』と読んだとき、驚きを深い疑念の顔つきをした。それから郁は昔のように「堂上教官」と呼び変えた。


「教官」
郁は堂上に気づかれないほど小さく息を吸った。他人からみれば無責任に見えるかもしれない、その一言を紡ぐために。

「・・・・・・寮に、戻ってください。隊長を通じて寮監にはお願いしてあります」

本当は『別れてください』と言うべきだったかもしれない。実はずっとずっと、心の奥底にしまいこんでいた『その言葉』を出すべきかどうか、迷っていた。
だけど、堂上と別れる自分が想像できなかった。
堂上の居ないこの先の人生なんて想像もしなかった。戦闘職種なのだから死に別れるときが訪れるかもしれないという可能性は理解してた、少しは。
こんな風に、妻だった、恋人だった自分を忘れ去られるとは想像できるはずもなく。


3ヶ月と少しの共同生活。
前と同じように過ごすのは無理でも、一緒に暮らしていれば思い出してくれるかもしれない。思い出してくれなくても、男女の情みたいなものが芽生えてくれたら、と都合よく考えていた。
だけど現実はそんな簡単ではなくて。
記憶を無くす前は、こんな風に二人は過ごしていたんだとわかるように努めて振る舞った。無くした記憶の部分には触れることのないように、今目の前にあるだけの二人の生活を大事にすることで、堂上の中に思い出されるものがあったら。

結果は、ため息を押し殺して作り笑顔で振る舞う日々。壊れ物を扱うようにしか、堂上のことをみられない自分。
触れることはもちろん、堂上から触れられることもなく、寂しい気持ちを押し込め続けるはもう限界だった。


彼を、堂上を、開放してあげなければ。
自分のことも・・・・・・開放してあげなければ。薄ガラスの細工は一瞬で粉々になるような、元には戻らなくなるそんな予感があった。
嫌いにだけは---------なりたくない。そして堂上に辛いと言われる前に----------離れなければ。

自分に限界が近いことにずっと目を逸らしていたけど、もう、無理。
でも自分から別れを告げる勇気はなかった。
今別れたら、堂上は『元妻だった部下』という郁の立ち位置は気を使うかもしれない。それは隊長に頼んで班体制を変えてもらうしか以外、すぐに出来る手だてはないけれど、なんとかなるだろう。

むしろ辛いのはあたしの方で。
嫌いだ、と言われたわけでもないのに、忘れられてしまう辛さに耐えられる自信がなかった。もし『別れ』が来るならばその時はきっと、郁が関東図書基地を去らなければならないと思う、堂上のためというよりは、自分のために。だって今あたしたちの間にあるのは、結婚指輪と戸籍だけだから。愛の抜け殻となった少し傷ついたリングと紙切れ上の結びつき。作った笑顔で互いが同じ空間に四六時中いるのは限界だと、郁の心が先に音を上げた。

狡いあたしは、別居だけ先に提案した。堂上には戻るべき所があって、在るべき所がある。彼は今もこの先も特殊部隊には無くてはならない人だ。


「笠原が・・・、郁が、そうしたいのなら」
しばしの沈黙の後に堂上がつぶやいた言葉は、彼のものとは思えないほど弱々しかった。
『郁』と、呼び直してくれたのは最後の気遣いだろうか。

「・・・明日から入れるように寮監にはおねがいしてありますから。じゃあ・・・おやすみなさいっ」
最後の語尾は泣きそうになってしまったのがバレないようにと、堂上の顔を見ること無く寝室にひとり戻った。



ベッドに伏せて泣くのも声を上げてしまうことができず、ただただ頬を伝う涙を放置して、郁は疲れの内に眠りついた。




◆◆◆





自分の中に残る記憶に基づけば、寮生活をするのが一番自然なのかもしれない。
笠原を、特殊部隊員として務まるように絞り上げて、疲れを癒やすためにビールを飲む。同期同僚と部屋で飲みながらくだらない話に花を咲かせいた記憶はある。

だが郁の口から『寮へ戻れ』と言われて愕然とした。
ベッド代わりに使っていたソファーに腰が砕けたような心持ちで座り込んだ。


俺はいったい何をしているのか。
途中の記憶がすっぽり抜けている事を他の連中に隠し、堂上班班長として課業をこなす。数年の間に大きくメンバーが変わっているわけでもないので、特にそれは問題なくこなしており、前例等が必要なときは小牧にフォローしてもらっていれば十分だった。

あいつの私生活のフォローは俺にしかできないことだった。
だが、この3ヶ月、フォローされるだけされて、何もしていない。あいつは俺の記憶に無い二人の距離でいてはならないと、遠慮がちな笑顔を寄越しているのを知っていたはずなのに、思い出せないのは仕方がない、とあいつの気持ちを放置した。

俺は本当に笠原をどうしたいのか?

「くそっ」
思わず舌打ちが声になった。

寝室の前に立ち、そっとドア扉に耳を付けた。
泣いているのではないか、と思い様子を伺ったが何も聞こえて来ず、もう眠ってしまったのだろうと決めつけて、上着を羽織りひとり静かに外に出た。






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(from 20140123)