+ 遭、焦がれて。 + 2017.10月に発行されました、堂上夫妻限定アンソロジー「Bon appetita!!」への寄稿SS
今日は疲れたなぁ。
無意識にため息混じりのひとり言が漏れた。
その日は防衛部との合同訓練だった。月に数回行われるそれは、防衛部員の基本技能のチェックから敵味方に分かれての防衛シュミレーションまでと多岐にわたる。特殊部隊では下っ端でも三正となった郁は、合同訓練時には主に防衛部員の後輩達のチェック担当となる。鬼教官殿に叱咤される年月が長すぎたせいだろうか、指導の立場というのは向いてない、柄じゃない、と思う。
土まみれになることはなかったので、隊服のまま帰路についた。家に帰ればシャワーだけでなく湯船にも浸かれるし、着替えは部屋着でいい。
なんて考えながら、いつも通りに官舎の階段を上り、鍵を開けて「ただいまぁ」と口にしてから気づく――
そうだった、今日も独りだった。
堂上は昨日から長期出張に出かけている。名目は銃火器使用禁止後の検閲抗争の想定及び訓練内容の研究。期間は一ヶ月。上官と部下でしか無かった頃も、そんなに長く他基地に出張することは無かった。当麻事件を経て手塚慧の『未来企画』が実現しようとしている火器使用の禁止が現実味を帯びてきた、と言うことなのだろう。
検閲が変わる。
きっとそれは検閲撤廃に向けてのほんの小さな一歩なのかもしれない。それでも何かが変わることは本を守ってきた郁にとっても嬉しい。
だが遠い地方の基地へ篤さんが行くとか!
普段の図書基地業務では、定期的にトップレベルが会合をすることはあっても、郁達現場方の人間にはあまり関係が無かった。それは図書隊が全国にあるといっても、各地方単位で設立運営されている広域地方行政機関だから、過日の当麻事件のような事の方が珍しい。
難しいことはさておき、郁にとっては『堂上教官が!篤さんが一ヶ月も不在だなんて!』てのが一番大きい。今までは、大概関東図書基地の管轄内での出張なので、長くても一週間程度だったのに。
居ないんだ、篤さん。
ただいま、と言って返事が無いことは普段でもある。同じ班とはいえ立場が違うから堂上の方が帰宅が遅い事が多い。先に帰宅する時でも郁は母親の躾のせいか、玄関先では必ずただいま、と言う。
しばらくはずっと「おかえり」が無いということ。
昨日は早速、とばかりに公休日だった柴崎と外で夕飯を食べた。うち来る? と聞いたら「旦那様が居ない時こそ、家事さぼりなさいよ」を笑って誘ってくれたから、堂上の不在をしみじみと感じる時間も無かった。
「とりあえずシャワー! お風呂っ!」
ベルトに手を掛けて心身に重く感じる隊服を脱ぎ捨てた。
一人分のご飯。何しよう?
ゆっくりと風呂で身体を癒やしてきたので、喉の渇きを潤すべく冷蔵庫を空けて思案する。特に考えてなかったし買い出しも行ってないが一人分ならなんとかなりそうだ。豚肉があるから生姜焼きにして、ご飯は冷凍のストックがあるから味噌汁は作ろうかな。残り野菜入れたら具だくさんになるだろう。でも一人分の味噌汁とか作ったこと無いから、明日の朝も和食だなぁ、なんて考えながらミネラルウォーターをボトル半分まで飲み干した。
普段はすぐに取りかかる食事の支度だが、今夜は慌てることも無い。ソファーに座って、なんとなくテレビのスイッチを入れる。普段からテレビに依存した生活をしているわけでは無いが、今夜はニュースキャスターの声でも、何気ないコマーシャルソングでもいいから、何か『人』を感じたかった――
食事の時はテレビを消しなさい、と強く言われていたのは幾つまでだったか。小さいときはそんな習慣も厳しい躾などと思うこともなく、母と三人の兄たちと、時折早く帰宅する父と一緒に食卓を囲んだから、静かすぎるなんて思ったこと無い。
兄たちが進学し、バイトや就職し、とばらばらに食事するようになった頃には、テレビを付けっぱなしにしていても何も言われなかった。特に母と二人きりになる日は、無言のままテレビの音だけで空気を誤魔化していたに近い。
バラエティ番組の時間になり、そのテレビから笑いも聞こえてくる。
「いただきます」
自ら作ったものにも手を合わせ、それから箸を持つ。あ、この浅漬け美味しい。夫が不在なのをすっかり忘れて漬けてしまったので少し量が多いが、浅漬けの素から出しておけば明日の朝でも大丈夫そうだ。
漬物なんて作ったことが無い郁には、結婚してからスーパーで出会った浅漬けの素にはとても感謝していた。ぬか漬けとか、奥さんならやらなきゃなんだろうけど、絶対ぬか床ダメにするわ……と思ったときに、堂上が勧めてくれたのだ。
「お袋は夜勤もある不規則な仕事だったからな。別に世間で言うお袋の味、なんか嫁さんに期待してないから安心しろ」
とストレートに言われたときはちょっとムッとしたが、郁が料理のレシピサイトに頼りながら、なんとか食事を作っていたのを知ってたからの言葉。堂上らしいな、と今思い出してもクスリと笑える。
昨晩はメッセージアプリでおやすみなさい、と送っただけだったが、今日は電話が来るだろうか? こちらから掛けても構わないが、堂上がどんな事をしているのか、動向が分からないので、つい「飲み会とかあったりするのかな」と遠慮気味になる。
そういえば、こうして電話しようかな、とかしてもいいかな? なんて悩むのも何時ぶりだろう? 夫婦となると急ぎの連絡や相談はもちろん電話でするのだが、たいした用も無いのに電話する、っていうのは……良いんだろうか?
電話に出てくれたらなんて言うの?「元気?」って? 一昨日に出たばかりなのに、元気?って訊くのも変?!
――なんて、普段考えもしなかった事に悩む。
くだらない? 分かってるけど、でもどうしてるかな? って思うし、声も――聞きたいじゃん。早すぎるかな、寂しいって思うのは。
あー悩みながら食事するのは消化に悪い!
とりあえず堂上への電話の件は後にして、食後の事に意識を向ける。隊服洗わなきゃなぁ、でもアイス食べたいなぁ、なんて。一人で出かけたら後で怒られるかな? いや、でももうあたし人妻だし! 三十路だし! 戦闘職種だし!
――もし、独身寮で柴崎と同室じゃ無くって、一人部屋だったら、あたしこんなに脳内一人会話してるのかしら、とちょっと自分で情けなくなった。
結局、そんな悩みは一時間後には吹っ飛んだ。
堂上の方から電話があったのだ。
たった一日会わなかっただけなのに、話すことは意外とあった。今日の合同訓練の事、昨晩柴崎と出かけた初めてのレストランの事、ボリュームのあるメニューもあったし、ワインも美味しそうだったから今度行こうね、と話す。もちろん堂上の方の話も聞いた。昨日はあちらの隊長に顔合わせの名目でごちそうになったとか、久々の関西弁が移りそうだ、とか。関西弁の篤さんなんてレアだから見たい! と言ってみたらアホか、といつもと同じイントネーションで返されたけど。
もう寝るのか、と訊かれて、コンビニにアイス買いに行こうか迷ってる、と正直に答えたら当然のようにダメ出しされた。明日は帰宅前にスーパーに寄って買いだめしてこい! と。確かにコンビニよりも、スーパーの方がお買い得だけどね!!
そんなこんなで話し込んで一時間半。
メッセージアプリ通話で良かった! と本気で思いながら郁は一人で広いベッドに潜り込んだ。寂しさではなく、堂上への愛しさを抱えながら。
◆
翌日は閲覧室業務補助。書庫内の担当だったので、一人不在な堂上班もそのまま配置された。
その翌日は館内警備。これはバディは一組しか作れないので、当然手塚と。小牧は事務室で待機兼書類仕事という事になった。
そんなこんなで、堂上不在でも特殊部隊業務は日々やってくる。今までだって数日不在はあったのだから、他班と調整しながらの業務はさほど問題にはならない。
ただ――――
「堂上はどうしたぁ、なんか辛気くせぇなぁ堂上班は」
派手なノビをしながら隊長室から玄田が出てきた。今まで仮眠してたというのがバレバレだ。
「関西ですよ! 隊長が飛ばしたんでしょうが」
ちょっと皮肉っぽく郁が答えた。
「なんだ嫁は不満だったのか? もう新婚さんに気ぃ使う時期は過ぎたろ」
「ソコに気を遣って欲しいとかじゃないですっ。そもそも仕事上でいうなら上官ですし」
「まあどっちにしても寂しい、って背中に書いてあるぞ。飲みにでも行くか?」
「夫に心配掛けますから遠慮します」
「そうだな、笠原が新人の頃から面倒見が良すぎる上官が不在じゃあ不安だろ」
玄田にしてみれば、目覚めに一発郁をからかったというところか。お決まりのように郁の背をバーンと叩いて事務所を出て行った。
――隊長に気を遣われるとかなぁ。
そんなに寂しさを醸し出していたかと反省を込めて、頬をパァンと叩いて周囲を驚かせた。
そして嵐の静寂の後に口を開いたのは意外にも手塚だった。
「――笠原、飲みとは言わないがメシでも行くか、柴崎も呼んで」
「あんたに気を遣われるほど、あたしヤバい?」
「いや、お前は割と普通に見える、少なくてもここに居るときは。たぶん……」
「笠原さん一人のせいじゃないよ。堂上も含めて、俺たちが馬鹿話して無いのが不満なんだろ、あの人達は」
もしくはからかう対象の堂上が単に居ないからかも? と小牧は首を傾げる。
「進藤三監も居ないからですよ、きっと」
今回の出張は進藤と堂上の二人で出向いている。進藤の方は銃火器に変わる電動ガンやらゴム弾に絡むことなので、少し早く戻ってくる可能性もあるらしいが。進藤と堂上は違うタイプだがどちらもムードメーカーだったということか。
「何にせよ、堂上の場合は笠原さんと二人一組だけどね」
どういう意味ですか、と小牧にツッコむのは敢えて止めておいた。
――堂上が関東図書基地から離れて六日が過ぎた。
◆
帰宅したら、必ず「ただいま」とメッセージを入れることにした。しばらくすると「おかえり」と返信が入る。それ以上会話が続かない時は、まだ業務中か人と居るときのようで、大分時間が経ってから堂上からの電話が入る。
「今日は隊長がね――」
とりとめなく、その日の出来事を話す。仕事の事もあるし、夕飯の事だったりも。つい、
「一人分作るの、って意外と難しいね」
と口にしてしまったときは、
「すまん、寂しい思いさせて」
と謝られてしまった。
「そうじゃないから! そういう意味で言ったんじゃなくて! ……ごめんなさい」
「どっちも謝ることじゃないな」
最後は互いに苦笑いに近かった。
「一週間後には連休があるから戻る」
「え?」
戻ってこれるの?!
「新幹線に乗っちまえば在来線入れても四時間かからんだろ。最終便より前に乗れれば余裕だ」
「ほんとに?!」
正直考えてもみなかった。一ヶ月の出張、と言われたから一ヶ月は戻って来ない、来れない、と思い込んでいた。
「正規の連休に奥さんに会いたいってのは普通だろ」
「うん」
奥さん、て堂上に言われるのは未だにちょっと恥ずかしい。堂上の口からその言葉が出るのは、大概からかわれている時だから。でも予想しなかった逢瀬の約束に素直に頷いた。
「早く会いたいよ、篤さん」
「俺もだ」
郁、とそっと付け加えられた。スマホを通してでも、耳元でそう呼ばれたようで小さく嬉しい。
「あと半分だな。それまで寝坊せずに、怪我もせずに、風邪引かずに居ろよ」
「分かってますって。篤さんも」
――元気で、無理をしないで。
「飲み過ぎないでくださいね!」
「ああ」
おやすみ、の後に聞こえたのがちゅ、という吃音で。
――――――滅茶苦茶驚いて、それを受け取った郁の方が恥ずかしくなった。
◆
堂上が居ないと、食事だけでなく洗濯物も少ない。
あーもう、今日は牛丼買って来ちゃおうかな? なんて思いながら帰路についても、結局なんか作ってたりする。魚焼くだけでも、ほうれん草のお浸しと納豆と味噌汁あれば立派な定食になるし。
習うより慣れろ、っていうのはこういうことかなぁ。
一人暮らしなので、自分でも面倒くさくてもっと外食していると思っていた。でも毎日柴崎を誘うわけにも行かないし、堂上が居ないのに隊の人たちの飲みに行くのは、散々堂上の背中に世話になった身としてはさらに気が引ける。それでも一日は柴崎が官舎に泊まりに来てくれた。酔っ払っても自宅だから、と酒豪な柴崎にちびちびと缶チューハイで付き合って寝落ちした位だ。久々のガールズトークも部屋飲みだと思うと、ずいぶん赤裸々な事まで突っ込まれたことは堂上には絶対内緒だ。
そんなこんなで。
独りで暮らすには官舎はちょっと寂しい。
でも、堂上と暮らすこの部屋が自分の居場所で。
いつぞや久々に柴崎の部屋に遊びに行って話し込んだ時は、なんとなく、もう他人の部屋だな、っていうのを感じてきた。
寂しいから、帰宅してすぐテレビを付けちゃうし、毎日していた洗濯は、隊服がなければ二日に1回にした。夫の居ぬ間に、昔の友達と会ったり、誤魔化して合コン行ってみたりしちゃう? なんて思ったけど、結局こうして堂上と暮らす部屋に一人で居る。
――――――だから、だから、だから早く帰ってきて。
◆
翌日、夕方に届いた検閲執行書に基づいて、武蔵野第一図書館は良化特務機関の激しい攻撃を受けた。
郁にとって初めて堂上のいない抗争。
班長不在の堂上班は、予定通り手塚は射撃班へ、小牧と郁は防衛部の一個隊を率いて正面の防衛にあたった。
いつもどおり、班長代理の側で伝令とフォローをすればいい。小牧にとってのバディが郁ひとりなのだからむしろ小牧の方がやりにくいはずだ。
「小牧教官! 左手の戦力が弱いです!」
小牧は自らも銃を撃ちながら敵の動向を分析しているため味方の動きを見るのは郁の務めだ。
「分かった、特殊部隊の応援要請を。少しここ離れるよ笠原さん」
「はいっ」
正面の戦力は手厚いから五分程度なら持つだろう。応援は間に合うかな。郁が短く通信を終えたのを確認すると、小牧は軽く手をあげて移動した。
大丈夫。本命はこの正面玄関じゃない。だから目の前の応戦でしっかり相手を捕まえておけば、他がやりやすいはずだから。
「弾幕を切らさないで! 補給は順に!」
もう三正なのだから、あたしが下士官をしっかり支えないと!
堂上がいなくても、あたしのすべきことは同じ――この検閲を阻止してただ本を守るのみ。
検閲攻防は閉館予定時間には終了したが、官舎に戻ったのはそれから三時間も後。堂上から着信があったのは確認したが、身体も口も重くて「夕方抗争があったけど、無事終了しました。今日はこのまま寝ます」とだけメッセージした。
眠りにつく前に「あたし頑張ったよ、篤さん」と一言だけ口にした。緊張の糸がほどけるように、目尻から涙が落ちた。
◆
「ただいま」が逆転したのは、それから六日後だった。
篤さんが帰ってくる!
『新幹線に乗った。ヤバい混んでて座れない』なんて書きながらも到着予定時刻を送ってきた。最寄り駅まで迎えに行っちゃおうかな? なんて思ってたらすぐさま『迎えに来るなよ、家で待ってろ』という察しの良すぎるメッセージが追加された。
仕方ない。ご飯も済ませて、お風呂も先に済ませておいて、すぐ入れるように空けとかなきゃ。夕飯は要らないと思うけどビールは飲むよね、冷えてるかな? なんて気が逸る。
玄関のチャイムが鳴るまで、テレビをぼんやりと見ているが中味がちっとも入ってこない。
もうすぐ会える。
声だけじゃなくて、気配も手のひらも匂いも温もりも。篤さんが傍に居る、って感じたいなぁ。ソファーに一緒に座って、肩が触れているだけでも良いから。
そんな事に思いを馳せているうちにウトウトしていた。
「郁、ただいま」
声が聞こえるのは夢の中だろうか?
「郁、風邪引くぞ」
「ん、あっ……篤さんっお帰りなさい!」
うわっあたし寝てた!?
「電車が遅れてた、すまん」
「ううん全然! それじゃ余計疲れたでしょ、すぐお風呂……」
慌ててソファーから立ち上がったところで強く抱きしめられる。
「――こっちが先だ」
「ん」
無意識に同意の一言を返しながら身を預ける。堂上の温もり、堂上の匂い――愛しい夫は今ここに居る。距離ゼロで身を寄せたあと、わずかに身体を離して口づけを交わす。触れて、囚われて角度を変えながらそれは深いものになる。舌先を絡め取られると、すんっと鼻で息をしながら応えようと動く。頭も、身体も熱くなり始めたところで、やっと解放されてる。
「――半月ぶりだからな、よく顔も見せろ」
両手のひらで頬を捉えられて見つめ合う距離になる。
「は、恥ずかしいよ」
上気した顔を見られるなんて!
「このまま、向こうに行ったらダメか?」
それが何処を指しているのかは夫婦としての経験則が教えてくれる――欲しがってもらえるなら、あたしだって今すぐ欲しい。
「――うがい、手洗いだけはしてこよ?」
嬉しさと恥ずかしさを誤魔化すために、お母さんのような一言で応えた。
◆
堂上の連休と一日だけは休みが重なったので、その夜はそれこそ眠いのを我慢して互いを貪り合った。ひと寝入りした後、一緒にシャワーを浴びてまた触れあって、少し眠りについて。
腹の虫が空腹を訴えたころにはさすがにベッドを抜け出して二人で少し手の込んだブランチを作った。食パン一斤を丸々使ってのパングラタン。オーブンで仕上げている間、待ちきれなくて添え合わせ用に作ったチキンサラダをつまみ食いしちゃったのも、二人ならいい。
翌日は通常勤務の郁から少し遅れて堂上は事務所に顔をだし、午後にはまた関西へ戻っていった。最後は庁舎内の人気の少ない廊下で抱き合ってから、手をつないで基地の営門詰所まで見送りに行った。
これでまた半月会えないんだな。
そう思ったら泣きそうになったので考えるのを止めた。
「行ってらっしゃい」
「ん、怪我するなよ」
「篤さんも、飲み過ぎないように」
「そんなに飲み歩いてないぞ」
いつもの気難しそうな表情が緩んで、手のひらがぽんっと郁の頭に乗った。
「行ってくる」
守衛が不在な時間だったが、監視カメラがある。繋がれた手はゆっくり離れて、肩のところに上げられた。郁は寂しさをグッとこらえて精一杯笑って手を振った。
◆
堂上が不在な事以外、何も変わらない日々が過ぎた。
夜には電話が入って、たまに飲みに行くなどというときはメッセージを交わして。一緒に過ごせなくても、互いがどんな風なのか教えあって。声が聞きたい、と毎晩思うのと同時に会いたい気持ちが募るので,メッセージだけの方がいいかな、と思う夜もある。人間なんてほんと我が儘だ、と郁は自分に苦笑した。
一人分の食事の用意に慣れて、時間をもてあます夜は良い機会だと読書に専念した。篤さんの居ぬ間に、友人達を気兼ねなく会って遊んでこよう、なんて当初は脳内で計画していたが、結局そんな機会は二度ほどしかなかった。
堂上が再び出張先に戻ってから数日後。
堂上班の三人は、車で一時間ほどの郊外に来ていた。一般人からの検閲対象書籍の引取依頼だった。最近はこういった業務がよく特殊部隊に回ってくる。郁としては良化隊の検閲に対抗して武器を持つより、こういう仕事がもっと増えたら良いと思っている。いや、こんな風に本を図書館に委ねなきゃならないような状況自体が無くなるべきだと思っているが。
行きの運転は手塚だったが、帰りは小牧が運転した。往復運転は疲れるだろうから、という理由で上官が気を遣ってくれたので、手塚は後部座席で郁が助手席だった。何事もなく基地まで戻れるだろうが、一応情報漏れなどを警戒して車の移動とはいっても周囲に細心の注意を払う。
「明日の公休は連休だけど、笠原さんは向こうに行くの?」
「向こうって?」
「堂上んとこ。あれ行かないの?」
「え、行けるんですか?!」
寝耳に水、とばかりに郁は小牧に食いついた。当初は連休ではなかったのだが、先日の検閲執行の勤務を調整するために休みが変更になったのだ。
「この前戻ってきた堂上みたいに、夜行って泊まれば?」
「でも篤さん公休じゃないし」
「夜、飯くらいなら一緒できるんじゃない? 笠原さんが向こうで宿とれば外泊だって出来るだろうし」
休みが合わない、という段階でそういう可能性は全く排除していた。っていうか、堂上が長期出張の間に自分が会いに行く、っていう発想が全く無かった!
「でも、ホテルとれるかな?」
「ああそうだね、最近は宿泊先確保が大変だっていうね。時間上げるから、ネットで調べてみたら」
いいんですか、と運転席を見る。ちょうど信号待ちで止まったところだったので、小牧も快諾の笑顔を郁に向けてくれた。
「笠原さん、頑張ってるから特別にね。手塚、警戒のほう頼むよ」
真面目なところは変わらない手塚だが、就業中に、などと野暮なことは言わない。上官も認めたことだ。それに笠原にとって堂上という存在は単に夫というだけではなく、公私ともにパートナーであることで上げてきた成果を間近でずっと見てきているから。
「調べるならビジネスユーズじゃなくて、少しランクの高いところの方がいいぞ。宿泊直前の今の方が、キャンセルが入って空室あるかも」
夫婦のことを手塚に気を遣われるのは恥ずかしいなぁ、と思いながらも、せっかくの許してもらえたのだからお言葉に甘えてスマホを取り出した。
突然湧き上がった小旅行。終業後に急いで帰宅して鞄に必要な物を詰め込む。堂上に「これからそっちに行きます」と予約した宿泊先名と一緒にメッセージが送れたのは中央線に乗り込んでからだった。
一人で新幹線とか、当麻先生の時以来かな。堂上と付き合い始めてからは帰省ですら一人では無かった。メッセージに返事は無いところを見ると、まだ忙しいのかもしれない。
武蔵境で指定席がとれるか聞いた方がいいよ、と小牧に教えられたので、その通りに窓口でチケットを買う。東京駅で土産も必要だろうから、到着は遅くなるけど少し余裕のある出発時間にしてもらった。
早く会いたい。篤さん驚くかな?
堂上がどんな反応をしてくれるかが楽しみでならない。今夜一緒に過ごせたらいいけど、あちらは翌日も出勤だから叶わなくても仕方が無い。日中はあちらの図書基地を見学しても良いし、市内観光をすればいいんだ、と堂上と時間の共有は出来ない覚悟はしてきている。
少しでも会えたら、声が聞けたら。
流れる窓の外に視線を送ると、車内が車窓に映っているだけの暗い夜の海が続いていた。帰りは富士山が見れたらいいな、と思いながら目を閉じた。
結局、堂上とのやりとりはメッセージアプリだけだったがなんとか連絡が取れて、駅には間に合わないからホテルで待ち合わせをすることになった。ダメ元でツインの部屋を予約してよかった、と一人ほくそ笑む。
「郁」
スマホの案内を頼りにホテルに行き着くと、ロビーで堂上が出迎えてくれた。やばい、姿を見ただけで嬉しくて照れる。公共の場所なので、とニヤけそうになるのを抑えるのに必死だ。
「――来ちゃった」
「ああ、驚いた」
呆れたような嬉しそうな、複雑な表情を浮かべてから堂上の手のひらが郁の頭にぽんと乗った。うん、もう見なくてもきっと微笑んでる。
「篤さん夕飯は?」
「牛丼で済ませた。コンビニも寄ってきたぞ」
「さすがっありがとうー!」
「溶けるからアイスは買ってないぞ」
「毎日アイス食べてる訳じゃ無いもん」
そうそう、こんなくだらないやりとりが欲しかったのだ。特別な愛の言葉じゃなくていい。ストレートな言葉でなくていい。中味はかけ離れていても直接言葉を交わせるのは幸せだと実感できる。
結婚して、初めて遠く長く離れていたからこそ、堂上篤という男の存在の大切さが身に染みる。
早く、抱きつきたいかも。
ダダ漏れだったのか、堂上は郁の手から荷物を奪って、行くぞとエレベーターに向かった。空いた手は繋げなかったので、そっと腕に手を伸ばして寄り添った。
◆
堂上の腕の中で朝を迎えた。もちろん普段より早い。温もりから離れがたくても、昨晩の事を思い出してちょっと恥ずかしくなっても、ベッドから起き上がらなくてはならない。
お前はゆっくりしてていいぞ、と言われたが一緒に基地の近くまで行くのが問題なさそうだったので、交代でシャワーを浴びてビュッフェ式の朝食を摂る。
「ホテル、連泊にしてあるのか」
昨日急に予約したので、リクエストは入れてあるがまだ返事は貰ってなかった。
「ヒルトン、空いてるか聞いてみるか」
「へ?」
別に此処でも良いけどなんで? と内心思っていたらちょっとふて腐れたような顔をしながら
「お前は泊まったことあるけど、俺は無いからな。せっかくだし」
「あのときは必要経費だったし、安全には変えられないから、って先生が思いきって提案してくださったけど、ここの倍ぐらいするよ?」
「――普段から旅行なんてしてないだろ。たまの贅沢もいいだろ。それに……」
察しろ、と堂上が言ったところで郁には分からないだろう。任務であっても他の男と一晩泊まったとか、自分は戦線離脱を余儀なくされて、生死を彷徨っていたときに、郁も孤軍奮戦していたのだとか、いろいろ複雑な男心があるなんて。
「あのときお前が見たものを、見てみたいだけだ」
堂上にしては小さな声で教えてくれた。あ、そうか、と少しだけ理解できた郁は「うん、じゃあきいてみよ?」と頷いた。
あたし達は、最後まで同じ光景を――と、互いに思った仲なのだから。
運良くヒルトンのエグゼクティブルームが取れたので、宿泊を切り上げ荷物はいったん堂上は独身寮へと持って行った。
東京からの土産を手に、関西図書基地の特殊部隊事務室に同行して隊長以下、その場に居た隊員に挨拶をした。一部の隊員からは「あああのときの!」という反応が返ってきたが、正直郁は誰が誰だか覚えていない。ハンカチを貸してくれた隊員が不在だったのはお礼が言えなくて残念だった。
堂上には決まった任務があったので、待機の隊員が郁について図書基地と図書館を案内してくれた。場所柄だとは思うが、関東よりは少し小さい。
関東と関西の違いなどをすりあわせながら話を聞いた結果、関東では武蔵野第一図書館への検閲を阻止することがメインだが、こちらは一館だけを防衛するのではなく、検閲執行通知がくればいわゆる「出動!」みたいな形になるらしい。
「有名な特殊部隊の紅一点、笠原さんを案内できて光栄や」
郁と変わらない年齢の隊員はとは気さくな感じで会話が出来た。一通り周り切る頃には、雑談めいた質問も入ってた。
「上官と結婚してそのまま特殊部隊で同じ班、ってのも凄いなぁ。普通どっちかが異動させられるやろ」
「そうですよね、業務部とかは大体」
何度かそういう質問をされたことはある。だが、堂上と郁については「適材適所」という隊長の一言で片付けられているし、自分たちも周りも納得している。
その度に、堂上に出会えて良かったと思う。
王子様、と言うと嫌がるけど、今こうして上官としても、夫としても伸ばした手をちゃんと捕まえてくれた堂上は、郁にとっては王子様と変わりない。
「仕事でも一緒にいて、それで認めてもらえてるのはありがたいです」
「ええ仕事をしてる、って事やね。うらやましいなぁ」
「これからも頑張らないと、ですね」
恵まれている。だから暫く会えないくらいでめげてる場合じゃない。
昼は一緒に隊員食堂で食べようと堂上からメッセージが来ていたので、案内の隊員に場所だけ聞いて礼を述べた。時間があるなら中之島図書館も是非、と言われたので頭の中で立ち寄りプランに追加した。
食堂で堂上と同じく他基地から来ている何人かのメンバーに紹介された。どの隊員からも「これがあの女子隊員か」みたいな言われ方をされて困ったが、それを嫁にもらった俺は酒の席でもっと突っ込まれるんだぞ、と複雑な顔をして堂上が呟いたので、納得の笑みを浮かべながら小牧や柴崎のようににっこり笑ってやり過ごした。
午後は一人で図書館をゆっくり回って、定時で上がることの出来た堂上といっしょに
勧められた店でお腹を満たした。やっぱり関西は食い道楽なんだなぁと思えるほど美味しくて少々食べ過ぎた位だ。
「ご飯はさ、誰かと一緒がいいよね」
「なんだ、外メシとか買い食いで済ませたんじゃ無いのか」
「えー、結構作ってたよ。食材も買い出し行くと余るしさー」
「じゃあ俺が知ってる頃より料理の腕を上げたって事ですね奥さん。戻ったら郁の手料理楽しみにしてる」
あ、そうきたか!
「篤さんは暫く台所に立ってないから腕が鈍っちゃうよねー。帰ってきたらリハビリに美味しい物作って貰おうー」
ずっと篤さんが料理担当でもいいよー、と笑った。それじゃあ郁の手料理が食べれん、と眉間に皺を寄せる。
「やっぱり交代で作るようだね」
あたしたちなりに、築いてきた家事のルールがある。早く元に戻らないかなぁ、とあと少しが待ちきれない。
「日程の半分は過ぎたからな」
慰めるようにぽんぽん、と手のひらが郁の頭の上で跳ねた。
◆
郁の突発的な関西押しかけで始まった連休だったが、短い時間でも堂上と二日も夜を過ごせて、嬉しさと別れ際の寂しさが入り混じる最終日となった。ぶらりと駅の近くのデパ地下を流し見して小牧達や隊へのお土産を買い込み、早めに新幹線に乗り込んだ。
確かに堂上が言ってたとおり、長期出張も折り返しは過ぎた。あと一週間、あと三日、壁に貼られたカレンダーを眺めてはマスの数を数える。
出張の最終日は何時に戻ってくるのか聞いてないが、翌日は偶然にも二人とも公休日にあたっていた。ビールも買ってきたし、夕飯は篤さんの好きな炊き込みご飯で、万が一戻りが遅くて食べれないようなら、翌日のご飯にすれば良い、と迎える段取りを整える。
奥さんらしくていいじゃんあたし。
堂上が不在の間は、結局読書に精を出していた。まだ一年と少しの結婚生活だけど、もうここが自分の城で。実家に帰れば? なんて同期の子には言われたが、一人で帰るのは未だに少し抵抗があるし、寮にも遊びに行こうと思っていたが、実際には柴崎の部屋と防衛部の先輩の部屋に呼ばれて一度ずつしか出向いてない。
読みたい本はたくさん会ったいいのだ。堂上も結局暇なときは図書館で本を借りて読んでた、と言っていた。やっぱり図書隊員は本が好きなのだ。
「おかえりなさーいっ!」
ピンポン、と鳴ったチャイムの先にパタパタとスリッパを走らせた。
「ただいま、郁」
「お疲れ様です、篤さん」
恥ずかしいけど、互いの頬が緩むのがわかる。ニヤけすぎてとても他の人には見せられない。ショルダーバッグを受け取ってベッドルームに置くと、キャスターバックを堂上が部屋に入れたところで熱く抱きしめあった。背中に回した腕を苦しくなる寸前で強く引き寄せあう。
互いの温もりと匂いを堪能すると、どちらとも無く少しだけ身体を離し唇を重ねた。それが深いものに変わるのは時間の問題で、激しく舌先を絡め合ううちに、火照り始めた身体を支えきれなくなって、横のベッドへと身を預けるとギュっとベッドが軋んだ。
「――ご飯は?」
「まだ。在るか?」
「うん、炊き込みご飯だよ」
「そうか、じゃあ郁の前に待望の手料理をいただくかな」
「――あたしは?」
「もちろん食後に」
ゴロリ、と抱き合いながら言葉を交わす。当たり前のように此処に戻ってきてくれて、大事に触れてくれるこの人がただ愛おしい。
「向こう行って一週間くらいは、毎朝起きると郁を探してた」
「あたしもね、居ない篤さんに『洗濯機が終わったから干してー』とか話しかけてた」
居ない人に話しかけちゃうとさ、隠しカメラで撮られてたらめっちゃ恥ずかしくない? と笑って見せた。今だから、今此処に堂上が居るから言える笑い話だ。だってそのときは、不在なのを実感して切なくなってたから。
「良かった、戻ってきてくれて」
「なんだもう帰ってこないと思ってたのか?」
「あっちで可愛い子が居た、とかさぁ」
「毎日電話かメッセージしてただろ」
それが精一杯だと堂上は軽く抗議した。
「うん」
そういうのに決してマメな方じゃ無い堂上が、というのは長い付き合いで分かっている。あたしだけじゃ無くて、篤さんも寂しいと思ってくれてた。
「次はさ、一緒に出張行こうよ」
隊長に掛け合ってさー。関西面白かったからまた行きたい。
「また行く先々でからかわれるぞ、部下を育て上げて妻にしたってな」
事実だけどさ! うん、でもなんか……
「やっぱ面と向かって言われるのは恥ずかしい」
「なら連休には一緒に一泊旅行とかするのも悪くだろう」
「うん」
確かに思ったよりも近かった。仕事の後にでも行けるのだから。
「旅行は絶対二人で、ね」
じゃあご飯にしよう、と声を掛けて触れるだけのキスを夫の唇に落とした。
Fin.
(from 2017.10)
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