+ こひねがう + 堂上篤生誕お祝い2014 つしまのらねこ様との共通プロローグ企画 上官部下期間 Writer つしまのらねこ
目を開けるといつもと少し違う光景が広がっていて、状況を把握するまでに一分もかかった。
寮の自室に似たような天井だったが高さが違う。
そして自分はスーツを着たまま糊のきいた真っ白なシーツの上に横たわっていた。
少なくても一日の始まりの朝ではない。
ああ、此処は医務室か。
以前は切り傷擦り傷などで世話になることも多かったが、最近は自分の為に此処に来ることは減っていたはずだ。
さらに一分ほどかけて登庁後の出来事を振り返る。そうだ、笠原の泣き腫らした顔についてのあれやこれやでいきなり投げられて―――今に至るのだと、思い出した。
気がつけば身体が宙を舞い、痛いと感じるのと同時に記憶が途絶えた。
ゆっくりと身体を起こして、痛みの箇所などを確認する。あちこち触ってみるが、幸い酷い痛みはないように思えた。
ベッドの脇に足を下ろし、衣服の乱れを整えると、カーテンの向こう側にいた産業医に声をかけた。大丈夫だと声を掛けたが、軽く聴診器をあてられ、身体の状態を確認してから解放された。
腕時計に目をおとし確認すると、意外にも時間は経っておらず、就業開始ギリギリの出来事だったとしても二十分も経ってないようだ。
小牧が運んできた、と耳にしたがあいつらはどうしたか?
医務室を出ると、訓練速度で特殊部隊事務室まで戻った。
「堂上、大丈夫か?」
自席で書類に目を落としていた緒形副隊長が顔を上げた。既に始業時間を過ぎているため、他には誰もいなかった。
「ご心配お掛けしました、平気です。で、うちの奴らは・・・」
「小牧の指示で手塚は狙撃訓練に合流した。笠原は、まあちょっとしたパニックになってたから訓練室の道場に持って行かれたはずだ」
「わかりました」
まあ、お前らの班はいつも賑やかだな、とでも言いたげな含み笑顔で緒形は頷いた。郁のプライベートの事で班の訓練予定が変更になったのは失態ではあるが、何せ相手が『手塚慧』であったという面は配慮に値するかもしれない。そのためにも、あいつが話せる事だけでも聞きたい、そんな考えで道場へと向かった。
両開きのドアノブに手をかけ、少し扉を開いたところで郁の声が聞こえた。誰かと、話している、このタイミングでは小牧だろうと簡単に想像がついた。
「絶対、堂上教官には言わないでくれますか」
突然自分の名前を口にされて、堂上は中に入ろうとした動きを止めた。
「手塚慧が・・・・・・堂上教官があたしの王子様だって」
―――郁が『王子様』の核心に触れた瞬間だった。
立ち聞きになる、と思い至ったのはそれからしばらくしてからだった。
立ち去れ、なかったことにしろと良心が叫ぶのに箝口令を敷いてまでひた隠しにしていた事実がよりによって本人に知られたことに混乱して足が動かない。
その間も扉の向こうではやり取りが続いていた。
「あたし、ひどいこといっぱい」
声の調子が弱くなる。小牧の言葉は低い分よく聞こえなかった。
「堂上教官があたしのこと嫌うの当たり前だ・・・・」
違う、と眉間に力が入る。
そんなことはない。
むしろお前の方が・・・ショックだったんじゃないのか?
威勢よくポンポンとつっかかって来ていた入隊頃と今の笠原は違う。
俺が上官であることを、認めている、とは思う。多分。
最近査問のせいだろう、どこか意気消沈している笠原を捨て置けなくて頭を撫でたりはしていたが、それを嫌がっている素振りは見なかった。
だがこれとそれとは別だろう!?
扉の向こうの会話を聞くとはなしに拾いながらも考える。
小牧が笠原にフォローを入れていた。
「・・部下として大事にされてた事実を無視したらいくら何でも堂上にむごい」
要らんフォローを、とがっくりと項垂れる。
そうだよ、笠原は。
続いた思考を無理矢理ねじ伏せて。
俺の───手のかかる、部下だ。
うっかり成分過多で目が離せないからつい手を伸ばしたくなるがそれだけだ!
体を支配していた緊張から解放された勢いのままに扉に手をかける。
開いた扉の音に二人が勢いよくこちらを振り向いた。
「堂上、意識戻ったんだね」
「ああ」
一瞬に満たないほど言葉をためらった小牧が睨むように見上げてくる。
扉が開いた瞬間堂上と目を合わせた笠原は慌てて目を反らした。
その視線から逃げるようにそのまま膝を抱えて小さくなる。
殻に閉じ籠るような反応に堂上は眉間の皺を深くする。
小牧の気遣う言葉に生返事を返しながら見た先で笠原は頑なに俯いていた。視線はうろうろと足元をさ迷っているのに堂上の方を見ようとはしない。
「何事もなかったとは思うけど今日は訓練に混じらない方がいいんじゃない?」
どこも異常はないから、と言いかけた言葉は小牧の視線に圧されて出なかった。
「俺たちも笠原さんが落ち着いたら訓練に行くから、堂上は事務仕事してなよ」
「・・わかった」
小牧の提案を呑む形で頷きながら笠原を見やる。
「じゃあまた後で」
追い出されたような形で扉を閉めながら中から小牧の声が聞こえた。
「内容が内容だし秘密は守るよ。ただね・・・・」
言外にその場から離れるよう促される言葉に堂上はわざと音をたてて扉を閉めるとその場を後にした。
デスクに戻った堂上は空席の笠原のデスクをチラリと見た。
今朝がた不意打ちに近いタイミングで綺麗に投げられた。ぎり、と歯軋りする。
余計なことを。
事態の黒幕であるのは間違いない手塚慧が高笑いしているのが聞こえるような気すらした。
今回ターゲットにされた笠原には落ち度と呼べるほどの落ち度はなにもない。ただ、奴が欲しがった弟の同期で同じ所属になっただけだ。
そしてその事を本人はおろか俺ですら忘れていた。
未来企画の話を聞いた当初から警戒しておくべきだった。未来企画の責任者が手塚慧なのもそれが図書館協会長を父に持つ手塚の兄だということもその兄弟にどうやら確執があるらしいことも早い段階でわかっていたのに、完全に掌で踊らされた格好になった。
直接には責任は無いだろうが班を預かる立場として、今回の査問騒ぎについては俺にもその責任の一端はある。
一番脆く見えた笠原にその全ての皺寄せがいって・・キツい目にあわせた。
笠原を守る立場にいながら、何も出来なかった。
今日だってあの泣き腫らした何かあったのが明らかな顔で現れたと思ったら。
そこで思考が止まる。
それを知って笠原はどう思ったんだろうか。
図書隊を目指す切っ掛けとなった「三正」が俺で、入隊後から掌を反したようにしごかれて。
いや、そこじゃない。
「堂上教官があたしのこと嫌うの当たり前だ」
笠原の漏らした言葉にざっくり斬られた。
俺は笠原を嫌ってなんかない。
だがあいつから見れば俺の行動は自分を嫌っているから、と見えるのか。
使えるように、無事に命を守れるように、鍛え上げた。今にして思えば確かに行きすぎた所はあったかも知れない。だがそれは必要だったから、必要だと思っていたからの所業で、フォローはしたはずだ。
言い訳の言葉を重ねながら気付いたのはそれが俺の主観であって客観性には乏しいということだけだった。
今まで同じ立場の女性がいなかったから比較対象がなかっただけで、恐らく相手が笠原でなければ俺は対応を変えていた、だろう。
目の前の書類をめくってはいたが内容なんて頭に入らなかった。
笠原は大事な部下だ。
思考にそう蓋をすると意識を切り替えた。
消灯時間も迫った頃にノックして入ってきたのは予想どおり小牧だった。
「立ち聞きは感心しないな」
前置きも何もなくそれだけ切り出される。
いつもなら持参するアルコールの類いも無くて手ぶらで部屋に上がるなりの一言目がそれだった。
「・・・・」
「で、どうするの。いずれはわかると思ってたとは思うけど」
小牧は気配に聡い。
動揺していたらしい笠原は気がつかなかったのだろうが俺が結果的に立ち聞きしていたことをわかっている口振りにしらを切っても無駄だと諦める。
「俺が言った訳じゃないしそれを知ったことを俺は聞いてない」
「ふうん。そういうことにするんだ」
お邪魔します、といつものように炬燵に潜り込む。
「色々やりにくいんじゃないかと思ったんだけど?」
今までのように知らん顔をする訳にもいかない、だろう。
弱い声で何を言っていたのかが気になる。
「笠原は・・・・いやいい。言うな」
言いかけた所で何を聞くつもりだったのかがわからなくなって迷った。真正面から見られると後ろめたい分だけ正面から見返すのは躊躇われる。
「色々混乱してたから相談相手は買って出たよ。それ以上はノーコメント」
小牧は班長への報告をその一言で終わらせた。
「それでなんで立ち聞きなんてしたのさ」
「意識が戻って道場に行ったと聞いたから行ってみたらお前らが込み合った話をしてたんだよ。不可抗力だ」
「・・まあ、すぐに踏み込んでこられなかった分色々話は聞いたけど」
小牧はつまみに置いていた乾きものをかじりながら溜め息をついた。
「お前が箝口令を敷いてなければ、って今更もしもの話をしたところで無駄なんだろうけどさ」
そうすればきっと当初の目的通り、図書隊にも俺にも幻滅した笠原は危険な職種を諦めていた、かもしれない。
「一応副班長として今後の方向性なんて聞いておきたいんだけど?」
投げられた問いにそのもしもを考える。
笠原を追い出したいならその方が早道だったのに何故俺はそれをしなかった。
突き詰めて考えればそこには俺のエゴがある。
心の奥底に沈めたはずの何か。
時折ガタガタと動いてその存在を主張する、過去の俺が無かったことにすると決めたその箱。
「方向性なんてあるか。今のままで変わらん」
「この期に及んでそういうこと言うんだ」
呆れたような小牧の言葉に目を反らしたままでいると小牧はあっさりと立ち上がった。
「まあいいよ。我らが班長どのの意向を尊重するとしますかね」
どこか引っ掛かる言い方に小牧を見上げるが小牧はおやすみ、とだけ言うと手を振って出ていった。
その晩俺は夢を見た。
高校生の笠原が俺に正対して言い放つ。
「あたしのこと助けてくれたのになんでこんな酷い目に合わせるんですか!?正義の味方だと思ったのに!」
あの時良化隊員に突き飛ばされた後で浮かべたような涙混じりの顔になる。
「こんなことされるくらいなら助けてくれない方が良かったです。あたしのことずっと騙して楽しかったですか!?あたしの夢とか希望とか全部踏みにじって・・・・」
酷い、と涙を制服の袖で拭く笠原に違う、と手を伸ばした。
手を伸ばした先でふいと姿を消したと思ったらその隣に戦闘服姿で今の笠原が現れた。
「教官は悪くないですよ。全部あたしが勘違いしただけですから」
真っ直ぐに俺を射抜く視線にどこかホッとして笠原、と手を伸ばした。
その手をパシ、と振り払われる。
「でも余計なフォローとかもう要りません。今のあたしはあの頃とは違います。教官の手を借りなくてもちゃんと一人前になりますから」
少し憐れみを含んだ視線。
「さようなら、教官」
にこり、と笑って歩き去る。
待て、と叫ぶと少し先で振り向いた。
不思議そうな顔で言う。
「何ですか?班長」
役職上は確かに班長だが笠原にそう呼ばれるとまるで俺のことだという気がしない。
俺はお前の上官だろう、と焦って言うとそうですよ、と笠原は応える。
「でも、誰が上官でも同じですよね?お仕事なんだから」
小首を傾げたままの言葉が痛い。
そのまますうっと離れて行く笠原に思わず叫んだ。
俺はお前の特別な人間じゃなかったのか!
自分の声に飛び起きた。
夜は肌寒くなってきた時期だというのに背中にびっしりと汗をかいていた。
夢だったことにホッとして息が漏れる。
夢の余韻から意識がはっきりするにつれ表情が険しくなるのがわかった。
夢の中とはいえ咄嗟に出てきた「特別な人間」という言葉に苦る。
特別かと言えば特別だろう。
なんせ笠原の人生を変えてしまった。
普通に就職していれば銃と隣り合わせの生活なんて夢のまた夢だったはずだ。
その三正を紅潮した表情で語る笠原を間違いなく喜んだ己がいた。
だがすぐにあり得ないほど脚色されたその人物に誰だそれはと心のなかで悪態をつきながら羞恥に顔があげられなくなった。
間違った思い込みを正してやらねばと思っていたあの頃の理論武装は完璧だったはずだ。
迷う余地もなかったのにいつも予想の斜め上な行動で引っ掻き回されてフォローする方もおおわらわになった。笠原の入隊から二年、必死で冷静であろうと努力を重ねて四年かけてそれがようやく馴染んできたと思っていたのに、笠原の行動に引きずられて判断を誤りかけることもしばしばだ。
ちらりと時計を見ればまだまだ深夜もいいところで朝まではだいぶ時間がある。
汗で濡れたシャツだけ着替えるとベッドにもう一度横になる。
体がもたん。
寝られるときに寝ろ。
そう言い聞かせて目を閉じるが笠原の動揺を思い出すと却って目が冴えてしまった。
心の奥底に沈めたはずの何かがカタカタと音をたてる。
密やかに、だが確実に。
四年間の間に朽ちて行くだろうと思っていたそれは本人を目の前に生活することでより鮮明になった。
俺は笠原を特別扱いしている。
それだけは間違いなかった。
ああそうだよ、お前は間違いなく特別だった。二度と会わないと覚悟していたのにノコノコと目の前に現れやがって!
俺がその事をどれだけ喜んでどれだけ動揺したと思ってるんだ。
今朝の笠原の比ではなかった。
なんせ箝口令を敷くことを思い付いたのすら面接から一週間も経ってからだ。
そう。
わざわざそんな回りくどいことをしてでも笠原と、あの時の女子高生と再会して・・・同じ志で仕事が出来る可能性に心が浮き立ったのは厳然たる事実なんだった。
それを認めると少しだけ心が軽くなる。
過去の悪行がバレた所で俺の方は少しばつが悪いだけで何も変わらないしその態度を取れる自信はある。
あとは笠原次第だ。
突然浮かんできた考えに動揺した。布団のぬくぬくとした暖気が眠りを誘う。
突き詰めて考えたくはなかったことも手伝って俺はそのまま眠りに身を委ねた。
◇◆◇◆◇◆◇
翌朝からの笠原は一応平常運転だった。
動揺はしたらしいが公私を分ける程度の分別はあったらしい。
ただ、いつもなら俺に話をするような場面で一番頼っているのが小牧になっている、らしいことが何やら気にくわない。
もっと頼れ、と思ったが顔を合わせるだけで派手に目を反らして困った顔で小牧に助けを求めるように目ですがる。
面白くはなかったが笠原も動揺しているんだからと自分に言い聞かせた。
事件が起きたのはそれから直ぐだった。
まさか図書館で痴漢なんて、と疑わしげに見る先で笠原と柴崎が結構多いよね、と何でもないことのように体験談を披露する。
「高校生の時の制服がスカートだったんですけど・・・・」
渋い顔で体験を語らされた笠原はそれは過去のこととして忘れていたのだろう。
制服、の言葉に見た悪夢を一瞬思い出しかけた。
あの時は女性というより少女といった雰囲気だった。その笠原に無遠慮に触れた手が有ることにムッとする。
痴漢行為に及ぶような輩はマニア向けのフィクションの中にしかいないものだと漠然と思っていたがそうでもないらしい。
今までの経験がものを言うのだろう、やたら手口に詳しい柴崎が主導権を握ったまま隊長の鶴の一声で囮捜査をすることが決まる。
「それで、こっちの餌が一匹、二匹・・・か?」
笠原を差す指にぐっと眉間に力が入った。
やりたくありません!というのが明らかな顔ですがるように見てくるが班長としての判断を誤る訳にはいかない。
「使いましょう」
他に効果的な代替案もない。
淡々と理由を付け加えながら見ると笠原はがっくりと肩を落としていた。
ヤル気満々の柴崎が何やら面白そうに俺を見ていたが俺はそれには取り合わなかった。
「心配しなくてもがっぷり食いつきたくなるくらいの餌にしてあげるわ、食われる覚悟しときなさいよ」
柴崎の言葉に笠原は項垂れたが柴崎の目線は何故か俺たちの方を向いていた。
女は化ける、と言ったのは誰だったのか。
当日現れた笠原は普段はパンツスーツに包んでいる形のいい長い足を惜しげもなく晒したどこからどう見ても妙齢の女性だった。
その衝撃は半端なものじゃない。
言葉をなくすっていうのはこういうことか、とぼんやり思いながら笠原から視線を引き剥がす。
淡々と作戦の打ち合わせをして、当然のような顔で笠原の側のガードにつくシフトにする。班員の誰かが必ずつくのだから俺がついても問題はない。・・はずだ。
現場について先に利用者を装って中に入るとまだターゲットは来ていなかった。その事を見てとった小牧が知人のような顔で話しかけてくる。
「鳩が豆鉄砲食らったような顔してるよ」
「うるさい」
「まあ堂上には関係ないんだろうけど、素直に誉めてあげれば良かったのに」
女を誉めるような言葉なんて早々出てくるか。
渋い顔で無言を貫いていると小牧は言った。
「士気に関わるんじゃないの?ちゃんと客観的に評価してあげなよ」
慣れない格好で出てきた笠原の顔は赤かった。丈の短いスカートが恥ずかしいらしい。
恥じらっている笠原は普段と違って見えた。女らしい、と言うのでは足りない。
がっぷり食い付きたくなるような上等の餌、だ。間違いなく。
小牧には何も言わずに然り気無く館内に視線を配る。
ターゲットが来るかどうかはわからないが、出来れば今日一日で決着をつけたい。
小牧はその思いがきっと強いだろうが、笠原にだって意に染まない格好を強いることにもなるのだ。俺にだってそう思う気持ちはある。
明日以降も続くようなら此方に更衣室位は用意するべきだろう、などと余計なことを考えていたら不審な男が目に留まった。
小牧の目がすっと細まる。
そしてそのまま蔵書を持って閲覧スペースの机に向かうのを軽く見送ってちらりと様子を伺うと特徴そのままの冴えない男が辺りをうかがいながら入って来る所だった。
携帯の着信を取りに行く振りでその近くをすり抜けて年季の入った分厚い眼鏡と年季の入ったショルダーバッグを確認する。
閲覧室を出るなり笠原をコールした。
二回目でコールに応じた笠原に何と言うか迷う。
「奴が来た。タイミング少しずらして来い」
近くを利用者らしき親子連れが通りかかった。
「入るとき他の利用者と紛れるな。それだけ化けたんだ、精々目立て!」
少しだけ私情の入った指示に笠原からは歯切れのいい了解の旨が伝えられて作戦は始まった。
付かず離れず目立たないよう笠原の位置を見失わないように、不自然にならないように時折書架にも目を配りながら館内を回遊する。
しばらくぶらぶらしていた笠原はゆっくりと奥の図書館分類学のコーナーへと進んでそこで立ち読みをすることにしたらしい。
定位置が決まったなら近くに俺がいるのは不自然になる。警戒されては作戦自体が台無しだ。書架の列を四つほど離れて笠原のいる方へ向かう人影にだけ注意していると辺りに不自然に目をやりながらターゲットが移動していった。
書架の影から気配を殺してじわじわと距離を詰める。
笠原のいる場所まですぐに駆けつけられるようにしながらも気配を消すことに腐心する。
直接様子を窺えないのが苦痛だった。
ターゲットともう接触したのか。
何をされているのか。
痴漢行為に及ばれたのか。
今回は囮捜査になる以上笠原が被害者にならなければ奴を捕まえても意味がない。
あの男が笠原に触れるのかと思うと腸が煮える。
咄嗟に動けるように右手は軽く握ったまま左手に強く力を込めた。
掌に短く揃えたはずの爪が食い込むほど握りしめていた。
息を詰めてその時を待つが時間が何倍にも感じた。
声を出せない状況で犯されてるんじゃないかというところまで思考がエスカレートするが時計を見ればまだ数分しか経っていない。
眉間に力が入る。
振り向けば手塚がこちらをうかがっているのがわかった。
目があった瞬間此方に向かいかけたのを掌で制して意識を笠原の方に戻す。
「何すんのよこの変態!顔の形変えるわよ!?」
威勢のいい啖呵にその場を飛び出した。
無言のまま現場を見れば目の前には奴を捕まえて足を振り上げた笠原。
そのスカートで大外刈は無理だろう、と思うのと同じくらい大胆に晒された足に目を奪われる。
物が倒れたような音がした、と思ったら技に入りきれなかった笠原がそいつに組み敷かれるように潰れた所だった。
「何やってんだ貴様!!」
笠原にのし掛かったままのそいつの体を力任せに引き上げて払い腰を極め直した所で控えていた手塚がすかさずそいつに手錠をかけた。
いつものように反射でスミマセン、と謝った笠原は俺に怒られたものと思っていたらしい。
改めて見れば当たり前だが着衣に乱れが無いことに心の底から安堵する。
命に別状はなくても心理的には大きな負担を掛ける今回の作戦に笠原を投入すると決断したのは俺だ。だから大丈夫かと聞くのは躊躇われた。
得意の大外刈を掛けようとして華奢な靴に足首がよれた、というのは見てとれた。
投げる瞬間の軸足には相当な負荷がかかる。
こいつの足は立派な武器なのに、とそこまで思考を固めて足元にしゃがみこむ。
「さっき何か変なよれ方しただろ、挫いてないか」
掴んだ足首は細い。見掛けないヒールのある靴を脱がせると足首を回して様子を見るが特に問題はないようだった。
ついうっかり慣れない服装を忘れて技に入った、と笠原が言い訳をする。
それは覚えとけアホウ!と遠慮なく怒鳴る。笠原はびくりとしたがこんなのはいつものことだ。
異常がなかったことにほっとしながら目線をあげかける。
白い柄入りのパンストの、その奥。
立てた膝の先で短いスカートの中身が見えそうなことに気づいて慌てて手を離すと立ち上がった。
いやいや待て。
俺はさかりのついた高校生か!
疚しい所はないはずなのだが一瞬沸いた欲望に笠原を直視できなくて目を反らした。
他の男の欲望の捌け口にされたばかりの笠原にいくらなんでも酷だろう。
己の内心にきつく唇を噛み締める。
「そんな格好で技に入りやがって一体何のサービスをするつもりかと思ったわ!」
八つ当たりだな、と半分自覚した言葉に笠原は男前な発言を返してくる。
「目の前に敵がいたら狩るでしょ普通!?」
「その格好で大外刈とか充分サービスだろ。自覚しろよ」
よく言った手塚。もっと言え。
多分手塚の位置からは技に入った所までは見えなかっただろう、と何処か安堵しながらも手塚には連行しろと指示を出す。
笠原の顔をじっと見てから躊躇って聞いた。
「何をされた?」
「足を触られました。あとスカートの中に手を入れられました」
何でもないような顔で報告する笠原の表情には特に嫌悪感があるようには見えない。
スカートの中だと?
長い足を強調するように殊更短いスカートだ。
その中に手が入った?
・・・どこまで触られたんだ。
余計な部分まで一瞬想像してしまう。苛つきに手を握る力を込めると笠原は慌てて重ねた。
「大したことじゃありません」
「大したことじゃないとか言うな!」
俺の剣幕に笠原は少しだけ眉をひそめた。
小さく息をしてよくやった、と誉めたが声の調子にはまだ怒気が混じっていた。
笠原と二人連れ立って取り調べ用に確保した会議室に向かう廊下で笠原は俺を呼び止めた。
「あの、教官」
なんだ、と振り向くと笠原は勢いよく頭を下げる。
「ちゃんと確保できなくてすみませんでしたっ」
「いやそれはいい。お前一人で当たった作戦じゃないんだ」
宥める口調で労う。
「よくやった、と言っただろう。お前がいなければこの件はもっと難航していたはずだ」
笠原はあからさまにほっとした顔をする。
「それと、あの、投げ飛ばしたりしてごめんなさい!」
真正面からもう一度頭を下げられて俺は慌てた。
「その件ももういい!お前が謝るな!」
「だって人のプライベートさらっとからかうようなことが書いてあって、どうしても見られたくなかったんです!」
「手紙を取り上げようとしたのは明らかにこっちがやりすぎだった!悪かった!」
もじもじと言い訳を口にする笠原に渋い顔で一応謝っておく。
笠原は俯いたままちらりとこちらを見上げた。
「あの、教官」
まだ話すことがあるらしい。
なんだ、とぶっきらぼうに言うと散々迷ってから笠原は俺に聞いた。
「に、入隊した年のことって・・覚えてますかっ?」
一瞬動きが固まる。
忘れられる訳なんてない。
あの出会いも、それに続く査問も記憶に刻み込まれている。
当時の笠原も全部含めて。
「えと、例えば・・あった事件のこと、とか・・・」
しどろもどろと言葉を繋ぎながらも笠原の目は揺れていた。
知らん顔をするのは簡単だ。
だが、と心が揺れる。
俺もそれを忘れられなかった、と聞いたらこいつはどうするんだろうな。
じっと笠原を見据える。
少しだけ唇の端を舐めた。
「覚えてる」
一言だけ答えると笠原が弾かれたように俺を正面から見た。
「忘れられないような事件を起こしたからな」
いつもよりヒールの分だけ高いその視線を正面から受け止めて見つめ返した。
驚きに見開かれた目を見つめれば内心の動揺がハッキリ伝わってきた。
「よく、覚えている」
お前を、と言いたくなるのだけはぐっと呑み込んだ。
笠原は暫く酸欠の金魚のように口をパクパクと開けていた。
息をしているのか心配になるほど綺麗に固まった笠原をじっと見ているとやがて笠原はへなへなとその場に座り込んだ。
「・・って、だって、なんで今になってそんな・・」
それだけ絞り出すように言葉を吐き出すとそこで笠原は目線を床に固定したまま突然黙りこんだ。
「聞かれたから答えた。俺は当時のその事件を反省したが微塵も後悔はしていない」
立て、と手を差し伸べるが笠原は何処か胡散臭そうにその手を見るだけだった。
床に向かってだらんと伸びた片手をつかんで引き起こすとのろのろとそれに連れて立ち上がった。
「あの、えっと・・・・」
思考回路は一杯らしい。笠原はそれだけ言うと暫くしてから俺のつかんでいた片手を引き寄せたのでそっと解放した。
「歩けるか?」
「あああ歩けます!!」
ブリキのおもちゃのような動きで歩き始めたのを確認して会議室まで歩きながら口の端で薄く笑う。
迷惑だとか鬱陶しいとか・・嫌われている、訳ではないらしいことに心の底からほっとしていた。
事件解決のお祝い、の名目で小牧がその晩俺の部屋に持ち込んだのはいつものビールではなくてちょっと値の張る焼酎だった。
ポットがこぽこぽ湯を沸かしている。
二人分の湯割で小さく乾杯してほっと息を漏らした小牧は事件の解決を喜んでいるのが明らかな顔だ。
「よかったな」
「うん、これで心配は一つ減ったよ。利用者の分もね」
正論の内側にこもる言い分に小牧の顔をじっと見る。
「・・中澤さんが安心できる、だけでいいんじゃないのか?」
「個人的にはもちろんそう思うよ。だけど」
暫く言葉を探すように小牧は宙を見上げた。
「毬江ちゃんが図書館によく来てくれるのも、そもそもは俺がいたからだろうと思うんだよね。つまり、彼女があんな目に遭った遠因が俺にあると思うと結構へこんだんだ」
それなら笠原が被害に合うよう仕向けた俺はどうなる。
渋い顔をしたら小牧はごめん、と苦笑した。
「堂上に言うことじゃなかったね」
「・・全くだ」
「事件は一応解決したけどさ、びっくりしたんだよね」
曖昧に濁したものの内容に突っ込まれたらと思っていた俺は少しだけほっとして先を促す。
「ああいうときに声を出せないとなるとどうしたらいいんだか・・」
困った顔をしている小牧を眺めながら思い出したのは笠原の対応だ。
明らかに触られた、後。
痴漢にあう覚悟をしていたはずの笠原ですらすぐには声を出せなかった。
調書を作りながら同席していた小牧にもそれが気になっていたらしい。
「いっそ防犯ブザーでも持ってもらったらどうだ?」
「あれって電池が切れてたら意味がないよね?どれだけ防水性が高いかもわからないし・・・何より可愛いけど子供っぽいだろ」
彼女は自分より随分年上の小牧と釣り合いたくて背伸びをしている年頃だ。
確かに防犯ブザーというと小学生なんかが持っているイメージが強い。
「なら笛とかか?持ち歩きできるような物があるかどうかは知らんが」
小牧は目を見張って俺を見返すとああ、うん、と頷いた。
「そうか。その手があった」
「防災用品扱いで販売もされてるんじゃないか?」
「・・折角ならちょっとお洒落なの探すよ」
高校の体育の授業で使っているようなプラスチックのホイッスルなら防災コーナーに置いてあった記憶がある。
小さな懸案事項が一つ片付いたらしく小牧の表情が柔らかくなった。
「笠原さんと柴崎さんにはとんでもない役割をしてもらったけど、助かった。ありがと、班長」
「お前が班長でも同じ判断をしただろ」
「まあね。だけど感謝してる」
そうか、と話を流した。
つもりだった。
「ところでさ、どういう心境の変化なの?」
曖昧なタイミングで投げられた質問に俺は小牧を見返した。
「笠原さん、いつにもまして動揺しまくってたけど?」
ニヤニヤ笑いながらの追撃に仏頂面を取り繕う。
「知るか」
「まだそんなこと言うんだ?」
差し入れで新しい一杯を作りながら小牧は言う。
「どうしたらいいんですか、って泣きそうな顔してたよ。これ以上動揺させてどうするつもりだよ」
どうすると言われても。
「・・・・それを決めるのは笠原だろう」
俺の方には主導権も決定権もない話だ。
渋い顔をしてそう告げると小牧は面白そうに俺を見た。
「いいこと教えてあげようか」
多分ろくなことじゃない。
今までの付き合いに聞き返すなと心のなかで警鐘が鳴る。
黙ったままの俺に小牧はさらりと告げた。
「笠原さん、一躍有名人になってるからね。今日の服装と活躍がもう噂になってるよ」
だからなんだと言うんだ!
じろりと見返すと淡々と小牧はいい放った。
「ぼんやりしてたら鳶に油揚げかっさらわれるよ」
だからそれは笠原が選ぶべきことで。
そこまで考えてやっと思い至る。
つまり、俺の手を離れる可能性があるということは・・俺は今まで無意識に笠原のことを俺の物のように考えていたんだった。
小牧に返せるような言葉はなかった。
手のかかるただの部下だ、とはもう言えなかった。
◇◆◇◆◇◆◇
年が開けると採用二年目の人間は一様にそわそわし始める。
二月に行われるのは初めての昇任試験で案の定笠原は頭を抱えて試験対策に奔走している。
年末には笠原人気を示すように度々飲み会だと言っては定時そこそこに帰っていた。大抵は手塚か柴崎が一緒で本人はあくまで「その場にいたからついでに」呼ばれたものと思って首をかしげていた。
その事にほっとしてはいやいや、と首を振る。
少しもやもやしながらも年明け一番の俺の仕事は笠原の昇任試験受験の資格をもぎ取ってくることだった。
多分笠原はその事を知らないし耳に入れるつもりもない。
冤罪同然に掛けられた査問で唯一の根拠のはずの砂川一士からの新たな証言もなくうやむやにされたことを突けば反論なんてあるはずはなかった。
気がかりと言えば笠原の態度がまだ固いことだったが、昇任試験のことだろうと水を向けると笠原がはっとした・・というか。明らかに自信が無さそうな顔になった。
「うちから一人だけ落とすような真似はしないから安心しろ」
ぽん、と頭を撫でたのはもう反射に近い。
笠原の目が揺れてそれから窺うように俺を見上げた。
「教官は・・・・いつ、だったんですか?初めての昇任試験」
取り繕おうかと一瞬考えたが苦笑するに留める。
「そもそも俺は三正採用だったから士長試験は受けたことがない。多少遅れはしたが心配要素もなく昇任したぞ」
どうせあたしは出来が悪いですよーとふくれる笠原はちょっとだけ複雑な顔をしている。
「ダメなら次もある。だが折角受験出来るんだ。筆記の対策位はしてやるがどうする?」
対策してやるから、と言いかけて判断は笠原に投げる。
迷う顔で躊躇ったのは一瞬で笠原は勢いよく俺に頭を下げた。
「よろしくお願いします!」
「容赦しないから覚悟しとけ」
笠原の顔が紅潮しているのに気をよくしているとうろうろと視線をさ迷わせた笠原が唐突に言った。
「それ!いいですよね。お花ついててカワイイの」
お花?
笠原の視線の先にあったのは俺の階級章だ。
「ああ、カミツレのことか?」
「え、それ、カモミールだったんですか?」
「そうとも言うのか?」
「ちっちゃくて可愛い花ですよね?リンゴに似た甘い香りの」
「実物は知らんが・・・・聞いた話だけどな、稲嶺司令の亡くなった奥さんが好きな花だったらしい」
外来品種は言語で呼び名が変わる。だが花なんて詳しく知らない。
雑談のつもりで出した話題に笠原は姿勢を正した。
表情がピリッと引き締まる。
その目をじっと見つめて切り出した。何年か前に先輩がその話をしてくれた時に俺もこんな目をしていたのだろうか。
少し身を乗り出して内緒話の距離で問うた。
「カミツレの花言葉って知ってるか?」
「さあ・・・・可憐とか母性とかですか?」
笠原はその花を知っているのだろう。それがどうにも図書隊のイメージと結び付かないらしくて首を捻っている。
「『苦難の中の力』」
笠原の顔つきが変わる。
二正の階級章を見つめる目が真剣な色になる。
暫く静かに真っ直ぐにそれを見ていた。
「あたしもいつか絶対カミツレとります」
力強く宣言する姿が六年前の女子高生とダブる。
お前ならきっとそう言うと思った。口許が緩むのがわかる。
「励め」
笑って言うと元気のいい返事がある。
「ま、その前に士長試験だけどな」
現実を突き付けると恨みがましい目付きで見上げてきたがわかってますよーだ、と憎まれ口を叩いただけだった。
筆記試験までは私情が入る余地もなく怒鳴っては叩き込むの繰り返しだった。
それでも覚悟を見せるかのように笠原が必死で食いついているのはわかる。
対策やるぞ、と言った課業後の空き時間に指定の時間に遅れたことも渋々といった顔で現れることもない。どこか嬉しそうですらある、というのは贔屓目だろうかと思っていたら小牧の目にもそう映っていたらしい。
前日の夜まで掛けて一夜漬け上等の覚悟で叩き込んだ結果は・・俺の予想通りというかなんというか。
かなりの低空飛行だったが二次試験の受験資格はもぎ取っていた。
そして、筆記が終わると同時に笠原は俺を頼らなくなった。
二次試験までは僅かな時間しかない上有効な対策も特にあるわけではなかったがそれまでが手取り足取り指導をしていたぶんぽっかりと穴が空いたような気がする。
「対策はしてるのか?」
課業後にジャージ姿で館内の敷地に出ていこうとする笠原と行き逢って聞くと満面の笑みで出しかけた手は断られた。
「バッチリですよ。任せてください!」
試験の内容からして子供と相性のいい笠原には特に対策が必要とも思えなかったが自信満々に断言されると却って不安になる。
「準備があるんで失礼します」
にこりと笑う笠原に生返事を返してじわりと不安に蝕まれた。
お前は一体どこに行くつもりだ?
茫然と見送る俺の肩に小牧の手が乗る。
「はーんちょ。心配しすぎ」
正論しか口にしない小牧がニヤニヤ笑っているのは雰囲気でわかる。
「あんまり何もかも手助けすると却って伸びるのを妨げるよ?」
そんなことはわかっている。
仏頂面を取り繕う。
「むしろ心配なのは手塚なんだがな。あいつも何も聞いてこないだろう」
小牧に水を向けると達観した答えが帰ってきた。
「手塚は肝心なところで判断を誤るような奴じゃないよ。その点では俺は笠原さんも心配要らないと思ってる」
手塚は人に厳しい分自分に求める基準もプライド相応だ。今になっても何も聞いてこないからには何処かでヒントなりとも掴んでいるのだろう。
笠原は・・確かに判断が甘い面もある。だができないことは出来ないと素直に言えるタイプだ。
「得意の斜め思考に行かなければいいんだけどな」
小さく漏らすと小牧は噴き出した。
「そんなの今に始まったことじゃないでしょ。信頼して見守るのも班長の役目だと思うけど?」
小牧の忠告は耳に痛い。部下を信頼出来ない奴に班長の資格はない。
わかった、と漏らした声は不満な色が明らかでそれを聞くなり小牧はまたくすくすと笑った。
心配半分興味半分で見に行った笠原の実技は文句のつけようがない出来映えだった。
見ているだけでわかる。
子供達が夢中になるゲームで好奇心を引き出して、何よりこんな形で図鑑を使った企画を立ち上げた奴は聞いたことがない。
子供達だけでなく審査をする方も感心しながら聞いている笠原の持ち時間はあっと言う間だった。
持ち時間一杯使って試験が終わったあとも子供達は笠原にまとわりついて箱や小物を欲しがった。
見ているだけでわかる。
「大好きなおねえちゃん」扱いだ。
たった十五分ほどの試験時間でそれだけ子供の心を掴むなんて少なくとも俺には逆立ちしたって無理な芸当だ。
「よくやった。予想以上だった」
誉めて誉めてと言わんばかりに駆け寄ってきた笠原に俺の精一杯の誉め言葉は上手く伝わらなかったらしい。
「文句なしだ」
重ねた言葉に笠原はようやく嬉しそうに笑った。
確かに笠原は教育隊の頃から俺が手塩に掛けて育てた。筆記試験の対策をしながら成長してないことにどこかほっとしていた。
俺が居ないとダメなんだろう。
そう思って・・侮っていた、と言えばそうなんだろう。
自覚するとそれは苦かった。
もうこれは認めるしかない。
笠原は立派に一人前の図書隊員だった。
夢の中の笠原の背中を思い出す。
背中を向けて歩き出す凛とした姿。
笠原が傷付くだろうとか笠原が嫌がるだろうとかそういう話じゃない。
そうやって己の感情を切り離したつもりになっていたが、単純な話だった。
部下だから、頼りない新人だから、覚悟が足りないから、後先を考えないから───いくらでも出てきた言い訳は彼女を思ってのことではない。
何をおいても彼女が思うままに変わらなくて済むように守りたかった、俺の都合だ。
図書隊は確かに正義の味方ではない。訓練はスポーツじゃない。
図書隊に所属していれば検閲が命を張った殺し合いと道義になる。
図書隊に所属していた人間として彼女をこの道に引き込みたくなかった。
いつまでも年端もいかない女子高生だった彼女のイメージに引きずられて散々特別扱いした。
結果の一覧を前に俺は一時動けなかった。
あくまでも公平な試験の結果、笠原は士長になることを認められた。
それは図書隊のどの部署でもその肩書きでやっていけると認められたということだ。
いつか見た夢で俺の手の届かないところまで歩いていく笠原の背中に投げた声は届かなかった。
今から先異動の辞令でも出ればきっとその先で一人で立派にやっていける。
一人前になった。
喜んでいいはずなのに気持ちが軋む。
実技のトップクラスなのは間違いがないその結果通知は容赦なく俺の言い訳は今後通用しないぞという現実を突きつける。
「印象に残るデータだね」
上から手元の結果を覗きこんだ小牧の言葉にはっと我に帰る。
慌てて表情を取り繕う。
「認める気になった?」
苦い顔で見やった先で小牧は意外なくらいに真剣な目をしていた。
手元の一覧に目を落とす。
「ああ」
肯定の言葉はすんなりと口を突いて出た。
「・・・・そっか」
穏やかな顔で見下ろしてくる小牧はそれだけしか言わなかった。
覚悟は固まった、と思う。
だが今更どうしたものだろうと思案していたその日、廊下で呼び止められた。
「・・堂上教官!」
振り向けば笠原が注意するかどうかをギリギリ躊躇うくらいの早足で駆け寄ってくる所だった。
「なんだ?」
「あのこれ!」
ポケットから何か小さな包みを出して押し付けるように渡された。
青いリボンがついている掌サイズの細長い箱だ。
「筆記でお世話になったのでそのお礼、です」
渡された箱よりも笠原の表情の方が気になる。じっと見ていると動揺している、というよりはこれは照れている、のだろう。
落ち着かな気に視線がウロウロとさ迷っている。
「開けていいのか?」
「ああ開けてくださいっ」
目一杯緊張しています、という様子が微笑ましい。口許が緩んだ俺を見て笠原の顔が赤くなった。
なんだこいつ。
可愛すぎだろうお前。
内心は隠しながらも手元に目を落としてシンプルな包みを開ければ出てきたのは小さな箱で、中には綺麗なブルーの小瓶が入っていた。
輸入物なのか単なるデザインなのか英文字で色々書かれていたが、商品名らしきロゴに見覚えはない。
「・・カモミール?」
ロゴの下に書いてあった単語は恐らくカミツレの別名だ。
「アロマオイルです。今はカミツレってラベルしてある商品はなかったんで。教官、実物は知らなさそうだったから」
丁寧に解説をしてくれたがそもそもアロマオイルってなんだ?
「本当はお湯とかランプで暖めて使うものなんですけど、香りを嗅ぐだけならいいかなって」
香水の親戚みたいなものなんだろう。蓋をつまんで開けると鼻先にビンごと近付けた。
リンゴに似た甘い香りはさっぱりしていて優しい。
女性の好みそうな香りだなとありきたりな感想を持っているうちにも笠原の解説は続いた。
「ハーブティーとかの定番で、アロマテラピーって民間療法にも使われたりするんですよ」
「・・飲めるのか?」
飲んだりするためのものとは思えなくて聞き返すと笠原は慌てて制止した。
「それ飲んじゃダメですよ!ハーブティーなら飲めるんですけど・・」
どこに売ってたかな、とブツブツ呟いている笠原の目を真っ直ぐに見た。
「そんなに簡単に手に入るものなのか」
「結構大きなお店なら大抵置いてあるんです。だけどハーブティーって上手く淹れるのが難しいんであたしが飲むときはいつもお店で飲んでます」
「それなら連れていってくれないか?」
うええ!?と声を漏らした笠原は明らかにそんなことを言われるとは思っていなかったらしい。
驚きに目を見開いている。
「えと、あの、それは・・」
混乱はしていても嫌がってはいない。
「お前と二人で飲みに行きたい。仕事じゃないからもちろん休みの日に」
畳み掛けると笠原は暫くぐるぐる考えた後で俺より高いくせに器用に上目遣いで聞き返した。
「でも、それじゃまるでデート、みたいなんですけど」
「それならそれでいい。むしろ好都合だ」
真っ直ぐに笠原を見つめたまま表情だけは平然を装っていたがオイルの小瓶を握った掌にはじわりと汗が滲んでいた。
一旦引くべきか?
女心なんて俺にはわかるはずもなく、感情の明け透けな笠原相手なのをいいことに今までの交渉術のノウハウをフル活用しながら答えを待つ。
追い詰めて逃げられたら心理的に痛すぎる。もう引くか?今押さなくてどうすると気持ちが揺れるのを無理矢理押さえ込んで待つことしばし。
頭を抱えていた笠原はチラリと俺を見上げた。
やり過ぎたか?
「・・お前が都合が悪いなら、」
退路を差し出しかけたところで笠原は答えた。
「いいえっ!こっちこそよろしくお願いします!」
一瞬断られたのかと思って表情が険しくなったがすぐに笑み崩れた。
「じゃあ再来週の公休でいいか?」
「はいっ。もうバッチリです!」
見るからにもういっぱいいっぱいな笠原が喜んでいるのだけは間違いない。
その顔を見ると少しだけ欲がわく。
一歩の距離を詰めるとくしゃりと頭を撫でる。ついでに短い髪を耳に添って撫で付けた。
「楽しみにしてる」
わざと顔を見上げて露になった耳の近くで一言いうとすぐに離れた。
立ち話をしていたのはいつ誰が通りかかるかわからない廊下で、笠原は真っ赤になって固まっていた。
「店が決まったらメールしろ」
事務連絡のように言うと笠原が頷いたのだけ確認する。
「ありがとな。大事にする」
貰った小瓶を軽く振りながら言うとその場を後にした。
「いいことがあったみたいだね」
部屋飲みに手ぶらで現れた小牧は開口一番そう言った。
「まあな」
ソースは笠原だろう、とたかを括っていたらもうね、と言ったきりくすくす笑いはじめる。
そのまま暫く待ってはみたがその笑いはだんだん酷くなっていって気が付けば上戸の国の住人になっていた。
お前は何をしに来たんだ。
冷たく見やるがその程度でどうにかなるような奴ではない。
死ぬ前に戻ってくるだろうと放置して発泡酒をあけた。
どこに行くかな。
休みの日に出かけるならお茶だけ飲んで帰るなんて愚の骨頂だ。飯を食って・・映画かボウリングか、近場で適当に遊んで。門限があるから遅くまでは無理だが多少雰囲気のいいところにも連れていきたい。
気が付けば小牧はまだにやにや笑いながら俺の顔を見ている。
「何だよ」
「・・・・締まりのない顔してるよ」
全くもって正しい指摘にぶすくれる。
「放っとけ」
「まあ見てて微笑ましかったけどね、二人とも」
笠原並みに駄々漏れだったらしいことに顔をしかめた。
「それで、何があったのさ?」
「プライベートだろ」
「そうだけどさ。気になるし聞きたい」
穏やかな顔でじっと待たれて根負けした。
「・・再来週デートする」
「え、それだけ?」
「ああ」
小牧は一瞬キョトンとした。
「告白とかキスもなし?」
頷く。
「それだけでアレなの?・・お前どんだけだよ・・!」
「アレって何だよ!?」
「自覚ないんだ」
それからまた小牧は盛大に笑い転げた。
「あれだけ幸せオーラ撒き散らして・・デートの約束だけとかっ・・どんだけまわりに被害が・・!」
切れ切れに漏らす小牧を苦く見る。
ああそうだよ!
こっちは三十手前なんだよ!!
好きな女と真っ昼間のデートだけで足りるもんか。
でも相手は笠原で・・今までにこんなに相手を特別だと思ったことは無かった。
逃がすつもりはない。だが彼女の全力疾走に勝てる気もしない。
それでも持久力勝負まで持ち込めばきっと負けはしない。
訓練のタイムを持ち出してまで算段していると思うと苦笑しか出ない。
一頻り笑い転げた小牧は結局部屋に来たのに飲みもしなかった。
「覚悟は決まったんだ?」
そろそろ帰るよと立ち上がる。
「俺の方はな」
開き直った俺に驚いたように目を丸くして笑った。
「そう。よかったね、堂上」
おやすみ、と手を振ると小牧は帰っていった。
その姿を見送ってから鞄を引き寄せる。
取り出したのは昼に貰ったばかりの青い小瓶だ。
蓋を開けて何かないかと探してティッシュペーパーに一滴落とすと仄かな香りが部屋に拡がる。
控えめについていた青いリボン。
どんな顔で用意したんだろうなと考えるとにやけるのがわかった。
入隊当初きつく当たった分思う存分甘やかせてやろう、とそれだけは決めた。
後は笠原の反応を見ながらだな。
貰った小瓶は少し迷ってベッドサイドの棚に置いた。
場所が廊下でなければキスくらいはしたかった。
ふと浮かんだ想いはそっと先送りする。
六年の間に気付けば確実に育っていた何かは満たされていた。
fin
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