+ 鶯谷で恋をした +   2014プチオンリー開催記念アンソロジー本「山手線で恋をした」より再録

 

 

 

 

 キィーーーーーッ。

 

 愛車がけたたましいブレーキの音を立てて止まった。

東京に出て来てから約二年、大学生協の「譲ります」掲示板で出会った自転車だ。丁寧に乗っているつもりだけど、毎日乗り倒しているのでそろそろタイヤも換えてやらなきゃと思うし、うるさいブレーキもなんとかしたい。それにはまず先立つものが必要だ。

 

 

 最寄り駅から数百メートルほど離れたところに建つ十階建の小さなビルが、やっと見つけた郁の新しいバイト先だ。

 

 高校を卒業したら地元で働けと言い続けた親の反対を押し切って東京の大学に通い始めたので、援助は一切貰えない。学費はもちろん奨学金。アパートは普通の女子なら避けて通りそうな六畳一間台所付きトイレ別風呂無し。あり得ない、と大学の友人には言われたが住めば都、二年も暮らせば慣れる。週三回のスイミングクラブの清掃バイトの時にお風呂は堪能させてもらい、他の日はお湯の出るシンクで髪を洗う。時給が安いのが難点だが、風呂の為には辞められない。

 そのために少し割の良い深夜のバイトと掛け持ちしていたのだが、先月やんごとない事件があってその居酒屋のバイトはクビになった。

 週末にかけて深夜帯に働ける所……と探しまくってやっと採用されたのがホテルの清掃係兼フロント。

 粗忽な自分にフロントなんて務まらない! と思ったが兼任でないと時給は千百円止まり。兼任すれば一気に千五百円の基本給+深夜手当がつく。深夜勤務でもコンビニよりはずっといい。

 出来るか出来ないか、よりは生活第一! そう言い聞かせて、郁は張り切って従業員用の入り口を潜った。

 

「笠原郁です、よろしくお願いします」

 面接時に会った四十近い支配人が清掃スタッフの女性に郁を紹介した。『今日は中谷さんと一日組んでいろいろ教わって』と言われ、母親くらいの歳の気の良さそうなおばさんに会釈した。

 

 まず施設の案内からと一通り建物内の裏表すべてを彼女に付いて回った。

「七階まではアメニティフロア、八階からはビジネスフロアね」

「ってどう違うんですか?!」

「あー、……行けばわかるわよ」

 そう、ココで初めて郁はアメニティフロアと言われた部分は、いわゆるラブホテルとして使われている、ということが解った。

 

 ――ラブホ!?

 

 まさか、初ラブホにこんな形で入るとか! っていうか入口にラブホ的な何かが書いてあった?! 地元にあったラブホは「休憩✕✕円~」とか「宿泊✕✕円~」とかネオン入りの看板あったよ? それらしき物は何処にも……!?

 

 キスすら経験の無い郁が男女の夢の痕を始末するラブホ清掃員になった瞬間だった。

 

 

***

 

 

――人生イロイロ、男と女もイロイロだと思うしかない。

 

 先輩掃除婦の中谷さんに言われた言葉は重かった。

身分を晒すことなく、ひとときの愛を交わすラブホテルという場所は、まあ、人それぞれの使用方法があって……そこに「何故?」を持ち込むときりがないと言うことなのだと解るのに一週間かかった。

 いわゆる「コトノアト」の部屋を見ても、想像力を豊かにしてはダメだという事だけは唯一悟った。そして同時に人間『匿名』の行動というのは、すさまじいんだな、という事も思い知った。

 ラブホテルというところは、まあ、男女がいわゆる、その……エッチをする所だというのは、ハタチを過ぎた女の知識としてはあった。にしても、設備やらサービスのなんたるか!

 ……その充実度はハンパなく、当然清掃員としてはそれらの設備やらサービスやらのフォローまできちんと覚えなくてはならなかった。

 部屋の清掃は当然の事、髪の毛一本、水一滴も残してはならない浴室の清掃。ベッドメイキングやアメニティの補充、設備ものやグッズの有無、カラオケやゲームの娯楽道具のメンテも。

気遣いも体力も、想像の上を行くハードな仕事だったが、先輩方にアレコレ叱咤されながらも必死で食らい付いて仕事をこなした。

「ピーク時は戦争みたいだけど、普段はそんな慌てることないし、ゆっくり出来る日の方が多いから大丈夫よ」

 もう十五年近くこの仕事をしている、という中谷さんは実の母よりも気さくに話せて、郁は随分頼りにしていた。何しろ覚える事が多いので、ミスを指摘されるとテンパッて慌ててしまうが、時には厳しく、時には優しく接してくれる。

 勘当同然で東京に出てきたので、地元に居る兄達からメールを貰うことがあっても、両親とは年に一度、正月だけ電話をいれるだけの仲になってしまった。実の両親とはギクシャクした関係だからか、余計に中谷の気さくさに救われながら、仕事を必死で覚えていった。

 

 郁の持ち前の一生懸命さと礼儀に好感を持って貰えたらしく、支配人や先輩達には気に入られて「郁ちゃん」と呼ばれるまでなった。東京でたった一人、学業と生活に追われるだけの日々を過ごしている郁には、その意外なアットホームさもちょっぴり嬉しかった。ラブホで働いてます、とは言いにくいが居心地は悪くないと思える職場で良かったな、と。

 

 

 それから一カ月、なんとか仕事にも慣れて、掃除婦として一人立ちできるようになると、夜のシフトに入れるかと訊かれた。

郁としてもそちらの方が時給が圧倒的にいいので、待ってましたとばかりに喜んで頷いた。

 時給が上がれば、働く時間を少し減らすことが出来る。大学に通うためにバイトして時間もお金もやりくりしているのだから課題に取り組めなければ本末転倒だ。おまけに居酒屋をクビになった時弁償分を給金から相殺されたために生活優先! で働いてきたから、この辺で仕事量をペースダウンしたかったのだ。

 

「週末の夜は忙しいらしいわよー。でも目標達成すると大入り袋出るしね」

 郁ちゃんが夜のシフトに行っちゃうと寂しいけど、ヘマしなさんなよ、と中谷さんに釘を刺された。まあ会えない訳じゃないしね、と笑いながら。

 

 

***

 

 

「おはようございますー」

 何時に出勤してもおはようございます、というのは二十四時間フルサービス業の鉄則だ。着替えを済ませてタイムカードを押すために事務室に入るが誰の反応もない。

 普段常駐している支配人は日勤シフトが多いので、今日は不在なのかもしれない。が、事務室の外にあるフロントから低く響く男性の落ち着いた応対が聞こえてきた。

「……ごゆっくりどうぞ」

 一通りの説明を終えたらしき男が、薄いパーテーション一つ隔てただけの事務室へ戻ってきた。

 あ……、れ?!

 何処かでみたような人ではあるが、郁が知っている男性スタッフは支配人と副支配人だけだ。

 

 何処で……?

 

 自慢じゃないが顔覚えは頗る悪い。でもこの人の雰囲気って、なんか見たことがある気がするのだ。クール、と超えて渋い表情。業者さんではないし、っと……あっ!

「一○一九のお客様……! ってなんで此処に?!」

思い出しただけ凄いと思って欲しい。客になんて興味は無いが、その部屋だけは定宿だと言われていたのだ。顔はじっくり見たことが無かったが、フロアクリーニングの時に何度かすれ違った事があった。

「なんで、ってここは俺の職場だが」

「へ、お客様じゃなくて?」

「アホか、俺は此処のオーナーだ」

 

 オーナー?! =持ち主?!

 

「ええええっ!?」

そりゃ驚くよ! だって支配人より全然若くて――どうみても二十代後半がいいとこだろう。しかも、こんな若い人がラブホの持ち主ってどうゆうこと!?

「……名前は?」

「笠原……郁、です」

「……堂上だ。それでどこまで教わってきた?」

「ルーム清掃とフロア清掃は一通り」

「フロアは夜勤ではしなくていい。それより覚えたのは清掃だけか?」

というか清掃しか習ってない。

「はい」

「それじゃ回せないだろうが」

 はい? と思ったが、無愛想な男がさらに眉間に皺を寄せると凄いことになんだな、とちらちらと眺めた男の様子をみて小さくため息ついた。

 

 ――もしかして、あたしあんまり歓迎されてない?!

 

「まあ、今議論しても埒があかない。習うより慣れて貰えばいい。ああ、休前日の夜は戦争だから覚悟しておけよ」

 堂上は郁の目の前に一冊のファイルを差し出した。

「今日は伊藤が休んだから人が足りない。待機の時フロント業務マニュアルを熟読しておけ。清掃は指示を出すまで行くな」

「あの! お言葉ですが、マニュアル一読しただけでフロント業務こなせとかとても無理だと!」

「そんな事は百も承知だ。支配人にヘルプを頼んだが今夜は遠方にいて戻れない。フロント業務も含めて俺とお前で切り盛りするしかない。いいか、仕事は人から盗め。基本を頭に入れておけば見よう見まねでも何とかなる。俺の仕事をよく見ていろ」

 二人で回すしかない、と言われて愕然としたが、上司である以上従わなくてはならない。

 ――な、なんか初夜勤が凄い状況な上に、この人おっかないよー!!

 郁の初夜勤は、戦争どころか、大戦争な予感しか無かった。

 

 

***

 

 

 此処は二つの顔を持つホテルのため、ラブホテル利用者とビジネスホテル利用者とはフロントを通るか通らないか、で決まる。

 

 本来なら休前日の夜、つまり金曜の夜は最低三~四人のスタッフが居るらしいが、二十三時まで勤務だった女性が家庭の事情で早退したらしい。その上、深夜スタッフだった伊藤さんという男性が発熱で休み。果たして郁とオーナーの堂上でこなせるのか、という事ではあったが……。

「宿泊に切り替わるまではルームメイクは大変だろうが、ポカするなよ。慌てなくていいから」

「はい」

 渋い、ではなく仏頂面のオーナーが放つ緊迫した雰囲気に郁は返事以外の言葉が継げない。堂上の出す指示は、端的で的確で隙がない。時々、フロントの呼び鈴がなるのに、内線のコールまで響くと郁はパニックになりそうだったが、落ち着け、の意味で堂上が郁の肩をぽんぽん、と叩く。制止されて息を継いでから、行動に移ると自然と冷静に対応できた。

 

 

ビジネスユーズの売りは、清楚な宿泊施設と充実したIT設備の利用し放題で、平日・休前日でも結構な人気で深夜までには満室になる。

 ラブホユーズの部屋には自動精算システムがあるので、フロント応対はルームサービスと物品販売以外は不要だ。

「笠原、物品行くからフロント頼む。チェックインアウトが来たらすぐ呼べ」

 フロント業務が必要なのはビジネスユーズの方の対応の事だ。

「決して慌てるなよ。余裕かまして部屋情報だけ端末にだしておいて時間を稼げ。予約の電話応対は?」

「聞くだけならなんとか」

「じゃあメモを取りつつ、予約端末は表示出すだけで時間は引き延ばして俺が戻るのを待て。間違っても勝手に受けるなよ。何かあったらインカムな」

 そういいながら、物品棚の鍵をあけて、何かの箱を手にとってから部屋を出て行った。しん、となってから改めてその棚には何が置いてあるのかを考えた。

 

――ああっ、それはつまり『大人のなんちゃら』とかですよね!?! 

 

 ルームサービスに行かされた事は無いが、この人手不足の状況でそこんとこは気遣ってもらえて良かった。いや、だって仮にも処女が手にする物じゃないしね。ってオーナーには言ってないけどっ! と、中谷さん達と一緒の頃、待機の時間に物品カタログを熟読しておけ、と言われて真っ赤になったのを思い出した。っていうか、どうやって使うか解らないですっ! て代物ばかりで戸惑っていたら「郁ちゃんはどっちが未経験?」とからかわれて正直に「どっちもですっ!」と答えてしまったのだ。

 今どきハタチ過ぎてもおぼこです、って恥ずかしいというか、なんかその……背格好も性格も女らしさから程遠いし、キスすら経験が無いのにラブホで働いてる、てだけで色々あり得ないよね……。

 確かに事情ありのカップルもいるだろうが、ここは二人だけで愛を交わす時間と空間を貸し出す商売だ。愛しあう、ってどんな感じなんだろう? と、純粋に思う。付き合ったことは無いけれど、学生時代には好きな人ぐらい居た。好きな人に想ってもらえて、躰を重ねる、ってどんな気持ちなんだろう?

 

――此処には、愛はあるよね。

 

あたしには無いけれど。

『干物女』という言葉がぴったりだわー、と仕事中にもかかわらず黄昏れてため息ついた。

 

 

***

 

 

 普段なら丑三つ時を過ぎれば仮眠も取れる事があるらしいのだが、休前日に二人だけしかスタッフが居ない、というのは無理な話で。

 

「申し訳ない。完全なる労働基準法違反だ」

 きちんと仮眠時間をとれなかった事で、規定の労働時間をオーバーしてしまった。深夜勤務手当の上、残業手当が付くことになるので、郁の方は構わなかった。だいぶ疲れたのは事実だが、休みなく働いていた訳ではないので、なんとか朝方までは持ち堪えた。

「初めての夜勤だったのに、こき使ってすまなかった」

 大変だったのはお互い様なのにオーナーはアルバイトの郁にまで深々と頭を下げてくれた。

「いえっ、そんなっ! あたし的には大きな失敗しなかっただけでもう!」

「まあ、この状態でクレームが無かっただけいい」

 ぽん、とテーブルに投げられたクレームノートに郁は手を触れた。アルバイトに入って少ししてから、読むように言われたノートだ。きちんとした報告書形式、ではなく、普通のノートに従業員が自由形式で客に言われたことや、起こったことなどを主観で書いている。最初に読んだ、最新のノートにはそれほど凄いことは書かれていなかったが、過去のノートを見せて貰ったときに、心底怖い、と思うような事も書かれていた。

 最たるものは、利用客の男女の痴話ゲンカに巻き込まれた的なものや、女が帰ったから○✕しろと脅された、というとんでもないものまであった。

 

「――ここで働くのが怖くならなかったのか?」

 若い子が勤める仕事じゃない、と堂上自身、本気で思っていた。そういう愛憎や人間のエゴに最も近い商売だ。正直風俗と大して変わらん、とラブホテル業に対して常々思っているからでもあった。

「怖い、ですよ。あたし、恋愛経験無いから男と女とかって、よく解らないですし」

 っと、そこまで口にしてはっとなった。徹夜明けテンションというのはあるかもしれないけど、あたし今さらっと、恥ずかしいプライベートをオーナーにカミングアウトしちゃった!?

「っで、でも! あたし稼がなきゃならないんで !生活かかってますし!」

「大学生だろう?」

「仕送りゼロなんで……。週末夜勤中心のシフトだったら、バイトの掛け持ちと学校、なんとか両立できそうなんで、怖い、とか言ってられないです」

「――割の悪いバイトの方を辞めてきてもいいぞ、君は思ったよりもここに馴染んでくれているようだから」

「あ、それは無理! お風呂に入れなくなっちゃう」

「風呂?」

 怪訝そうな表情で堂上は郁を見た。仕事で風呂に入るとは、どういうことだ? と問い正したいが、そんな間柄ではない。

「今のアパート風呂無しなので! スイミングクラブの清掃のバイト辞めちゃったらお風呂に入れなくなるんです」

「……じゃあ此処で入っていけ、仮眠室にユニットバスがある」

「でも此処に来るのは週二日ですから」

「あっちは時給がいいのか?」

 いいえ、の意味で首を横に振る。九百円なので、決して良いとは言えない。むしろ此処の日勤の方がよっぽど良い。

「じゃあ、夕方勤務に週三日入れ、そうすれば風呂の問題は解決できるしフロントが混む時間帯だから仕事も覚えられる」

「でもそれじゃあ……」

日勤で仮眠室なんて使うわけには……、と思うがだだ漏れだったのか、堂上は直ぐに答えをくれた。

「此処も今日に限らず、慢性的な人手不足だ。仕事を覚えている人がたくさん働いてくれたら効率がいい。それに――」

何故か堂上は言葉を少し止めてから、吐き出すように告げた。

「――オーナーの俺がいいと言ってる」

 意に反してラブホのオーナー、という立場が転がり込んでで来てからも、いわゆるオーナー権限みたいなものは振りかざしたことがない。なぜそんな傲慢な理由を口にしようとしたのか。

 

 堂上の眉間の皺は深いままだったが、最後には郁もその言葉を受け入れて、機を見てスイミングクラブは辞めてくる方向に話しがまとまった。

 

 

***

 

 

 それから一カ月もしないうちに、郁はスポーツクラブの清掃の仕事を辞めて、アルバイトはホテルの仕事だけにした。

時給が良いということは、時間が作れるということで、大学の授業も専門的になってきたし冬になれば就活もある。本業は学生なのだから効率良く仕事しないと。

男女の、人間の裏側を垣間見るような仕事だけど、働く人達の気持ちは優しかった。待機の時間に世代も置かれた環境も違う誰かと話すのも楽しい。そういう意味では随分馴染んだと思う、バイト先はラブホです、って公言は出来ないけど。

 

 

 何度か週末の仕事をこなしてみて、オーナーの堂上と仕事が一緒になるのはこの休前日の夜勤の時だけらしいと解った。

「オーナーって、何している人なんですか?」

フロント奥の事務室の横は休憩待機部屋にもなっているので、みんなが持ち寄ったお茶請けが結構置いてある。誰かの旅行土産の菓子を戴きながら、久々にシフトが一緒になった中谷に聞いてみた。

「普通のサラリーマンやってるんじゃなかったかな? ここはお祖父さんから財産分与された、って。こんなトコ興味ない、何で俺が、っていう風体でね」

 まあ今も仏頂面は変わらないけどね、と中谷は笑う。

「最初は、たしか月に一度、支配人と税理士と打合せで来ていたのかな。どんな経緯かは知らないけど、一年くらいしたら、週末の夜だけ、オーナーがシフトに入る事になって。そのうち会社には此処から通う方が近いから、って一○一九号室を定宿にしちゃったのよ。それからあたし達とも顔を合わせるようになって、今は普通に話すけどね。

『サラリーマンなんてやめちゃえば』て言ったら『外から見ている位がちょうどいい』だって。

実際、ビジネスフロアのITサービスとかドリンクサービスとかはオーナーが発案したことだし。それでほぼ、平日日中も埋まって居るんだから、意外とやり手よねえ」

 なんとなく聞いてみただけなのに、随分たっぷりと情報が与えられて少々驚いた。

『中谷さんオーナーのファン?』と訊くと、『えー、だって三十路のいい男じゃない?』と真顔で答えた。

「愛想の悪いけど、何で鍛えているのか意外と細マッチョ系だし、顔も結構整ってると思うのよ、そしてホテルオーナーでしょー!」

そう語る中谷はもちろん一家の主婦だ。

『本気でオーナーを狙えないのがちょっと残念だけど』と前置きした後で。

「郁ちゃんは週末夜勤になって、オーナーと一緒じゃない? 

どうよ?」

「っていうか、あの人独身なんですか?」

「何、興味持った? なんか無いの? 恋が始まる予感とか」

「って、忙しくてそんな余裕も予感もありませんよ!」

実は結構怒鳴られっぱなしなのだ……大きな失敗こそしてないが、あれを先にしろ、とかこれをやってないとか。確かに人手不足だと、優先順位をつけてからでないと仕事はこなせない。その指示が意外と体育会系でおっかない……。

 

「とにかく、もう怒られないように! クビにならないように! しか考えてませんよぉ……」

 思いだしてもちょっとおっかない。指示は的確なので反論することもなく、ただこなすだけだ。唯一、癒されるというか、ホッとするのは、仕事の最後に「お疲れ、良くやったな」と言いながら頭にぽんぽん、と掌を置いてくれるところ。

 子ども扱いされているなぁ、って思うけど、あたし頑張ったんだ、と褒められているような嬉しい気持ちになれて。また、次も頑張ろう、と思えるのだ。

 初めて一緒に仕事した時も。人手不足で且つ郁はフロント業務はろくにしたことがない。それでも客のオーダー品は堂上が一人で請け負う。ルームサービスは男性しかしないのか? と支配人に訊いたこともあったが、そうではないという。それは、堂上ならではの郁に対する気遣いなのかもしれない、と支配人に諭されて納得ができた。

厳しい中にも、どこか優しさがあって。怒鳴られる事の方が多いけど、見捨てられてはいないんだ、って思える。この人に、頼りにされるような仕事したいな、と純粋に思う。

 

――大人の男の人、ってこういうものなのかな?

 

 

***

 

 

 生活の為のバイトが忙しいため、幽霊部員と言われても仕方がない状況ではあるが、入学当初から仲良くなった友人の付き合いもあって「文化研究会」というサークルに所属していた。「文化」といえば聞こえがいいが、それぞれ好きな物をとことん追求して発表するとかいう謎の活動で、ミュージカルの追っかけをやっている子もいれば映画鑑賞と評論のブログをやってる先輩もいたり、で要するに活動らしき活動は個々で行っていて、数ヶ月に一度の飲み会でようやく顔を合わせる、というのが正しい。

 

 夏休み前だから郁も絶対においで、と友人に言われ、都合を付けて納涼会という肩書きの飲み会に参加した。

総勢二十数名。その中に、殆ど顔出さない郁にも気を遣ってくれる男の先輩がいた。柔らかい物腰だが、そつなくきっちりとこの好き放題人ばかりのサークルを束ねていた元部長だ。優秀な彼は、もう就職内定も出たらしいよ、と友人から聞いていた。

 

 乾杯ー! の合図でちびちびとカクテルを飲み始める。お酒に強くないから本当に少ししか飲まないが、飲み会の雰囲気は嫌いじゃない。同じゼミの子もいたので夏休みの事やら文化祭のことやら、恋愛のことやらを気さくに話せて楽しかった。

「郁ちゃんは夏休みどうするのー? こっちにいるんでしょー?」と聞かれ、さすがに「バイト先のラブホに入り浸りです」とは言えなかったけど! めっちゃ誤解されそうで!

 

 まあ、たまにはこうして学生らしく息抜きもいいなぁと思えた。普段は授業と課題とバイトしかなくて……、いやまあ、それも社会勉強にもなっているし、ほんの少しだけど貯金出来るようになった。バイトを通して社会に触れて、大人の人達に触れて、ラブホという男女のサガ的なものを垣間見るのも、まあ必要だとは言わないけど! 大人になるっていろいろあるよね……と、なんか好きだとか愛だとか、綺麗な恋愛だけじゃないものがある、っていうのも判ってきた気がする。

 経験値がゼロなのにそこがわかるのもどうなの? と自分で突っ込みたくなったのも事実だけれど。

 

 

 

「郁! 郁ってば! お開きだよ!」

「ん……?」

 飲み過ぎは厳禁! だったのに店員がオレンジジュースとカシスオレンジを間違えたらしく、ゴクっといってしまった後から記憶がない。それに未だ眠い……。

「うん、らひじょうぶっ。おきるよっ、おきる」

「って全然起きてないじゃん、あんた大きいからなぁ」

郁は華奢だが一七〇センチはある。到底女子の力では抱えられない。

「ああ、いいよ。俺一次会で帰るつもりだったから、笠原さん送っていくよ」

「いいんですかー、先輩ー?」

元部長が郁の肩に手を伸ばす。一八〇センチ超えの男なら問題なく抱えられるので心強い。そして、何よりも紳士だから……と、友人たちは郁を任せることにしたらしい。

 

 

***

 

 

 誰かの、声が聞こえる。男の人の声だ。――のお返しです、ありがとうございました、って、ああ、お金払ってるんだ。

ぼんやりした意識の中で、郁は誰かに抱えられるようにして座っていたところから立ち上がった。ああ、車だったんだ……、と気づくまでに少し時間が掛かった。

「郁ちゃん、歩ける?」

 聞き覚えのある声だが、誰だか判らない。郁ちゃん、なんて呼ぶ男の人なんて今はいない、よね?

 誰だろう? とすぐ傍にある人の顔がみたいのだが、眠くて顔を上げられる気がしない。

「具合、悪そうだから、少し休もう」

 そう囁かれても、意識が回復せず、項垂れたまま数十歩、引き摺られるまま足を進める。自動扉が開く音が聞こえて、薄暗い照明の建物の中へ吸い込まれる。

 目の前に、すこし明るい画面が見えて、郁はようやく面を上げた。

 

 え…………?

 

 こんな風に見上げるのは初めてだったけれど、見覚えのある画面がそこにあった。呆然としている間に、元部長は素早く一つのボタンを押し、出てきたカードキーを手にした。

 

「せ、先輩……?」

 郁はようやく自分が今誰に抱えられているのかが解った。

「大丈夫だから」

 再び強く抱えられて、エレベーター前へと引き摺られた。大丈夫の意味も問えずに、郁は動揺しつつもやっと状況を飲み込んで覚醒した。ちょっと待って、ここは――!

 

 

「失礼ですがお客様、お連れ様は意識がはっきりされていないようですが、こちらには同意の上でお越しなのでしょうか?」

「……はぁ?」

 怪訝な声で、元部長は声の主の方へ睨みをきかせる。いつもは郁より低いところにある目線が、今日はずっと上にある。郁にとっては、聞き覚えのある声――オーナー!

 そして隣に立つ元部長を見上げるような形にはなるが、彼の作り出す雰囲気は強く真摯なものだった。

「未成年連れ込んでる訳じゃねぇし、引っ込んでろボケ!」

 精一杯のくだを巻くような口ぶりで返す元部長は、郁が知る先輩とは別人のようだった。あわてて腕を振りほどこうとするが、思ったよりも細マッチョなのか力が強い。

「郁!」

「は、はい!」

「同意の上か?」

「いえ全然!」

 むしろ、助けて! と言いたいが、元部長の力も凄いし、堂上の睨みもハンパ無くて、郁は蛇に捕まりながら、マングースにも睨まれた的な威圧感でそれ以上の言葉が出ない。

「客のプライバシー侵害すんのか?」

「――俺の女だと言っても、まだ連れ込む気か?」

「!」

 堂上が男に放った一言に郁も先輩も呆然している間に、腕を引っ張られて堂上の胸の中に抱かれた。 

 

「――女の意志くらい確認してから来い」

 そう言い放つと、胸ポケットから一枚のチケットを取り出し、元部長の掌に握らせた、恐らくホテルの割引チケットだ。そのまま、衝立の反対側へ来るように促し、ビジネスフロア用のラウンジから男を帰した。

 

 

***

 

 

「アホか貴様!」

「す、すみませんっ」

 従業員控え室に座らされ、水を二杯飲むように命じられた。堂上の打ってくれた芝居ですっかり眠気も酔いも覚めた。

 

「あ、ありがとうございました……」

 でも、よくあたしだってわかったな、と驚く。それがだだ漏れだったのか……

「合意の上でラブホに行くにしても、勤務先を利用する奴は居ないだろうが」

 あ、そうですよね。

「どう見ても酔ってるしな。俺がたまたまモニター見たから良かったものの、なあ!」

「ほ、ほんとすみませんっ!」

ホントに、恐縮するしかない。あのまま堂上が気づかず、声も掛けてもらえなかったら……。仮に部屋の中で覚醒したとしても、逃げられたかどうか、声が出せたかどうかなんてわからない。

 

「年頃の女なんだから、気をつけろ。それから今夜はここに泊まっていけ」

「へ?」

「一〇一九、俺の私物が置いてあるが、気にしなくていいから使え。今朝シーツは替えてある。まだ酒が残っているだろうからシャワーは朝にしろよ」

 送って行けないしな、と堂上が小さく呟いた気がしたのは空耳だったのだろうか。

「……はい、じゃあお言葉に甘えます」

「ん」

ぽんぽん、と堂上の掌が郁の頭の上で跳ねた。お酒の酔いは醒めてしまったけど、その掌の心地よさにはもう少し浸りたいような気がしていた。

 

 

***

 

 

 結局、郁の夏休みは課題とホテルのバイトで埋め尽くされた。

まあ春先からの就活時期は、あまりバイトをしている余裕もないだろうから、今のうちに少しでも稼いでおきたい、という郁の思惑と、思いの外ビジネスフロアの観光客ユーザーが増えて、平日休日共に満室にはなるし、ルームサービスの利用率も高かったので、ホテル側も増員を余儀なくされていたのだ。

 

 郁としても、週六日勤務でホテルに来ていれば、夏の女のお風呂事情としては随分助かった。しかも夜勤の日はまかない食を作っていいので、作りさえすれば食費も掛からなくて助かる。今どきのルームサービス用の冷食は本格的なレストラン仕様の味なので本当に美味しい。ビジネスフロアで、夜にルームサービスを頼まれることは滅多にないが、そう遅くない夜の時間に一本の電話がなった。

 

「え、部屋がたばこ臭い……とおっしゃるんですか?」

 

 利用者からの内線電話を取った郁は思わず声をあげたが、そんなはずはない。ここのビジネスフロアは全室禁煙で、廊下に設置された喫煙エリアでしか吸えない事になっている。もしルールを破った客がいたとしても、ルームメイクをするときに気がついて全力で消臭しているはずなのだ。

 

「申し訳ありません、本日は満室の為代替えのお部屋はご用意できません」

 ここまではマニュアル通りの受け答えだが……これ以上の事は新人の郁には判断できない。だがオーナーはフロント応対、もう一人はラブホのルームサービスに出向いている。

「はい、わかりました、直ぐに参ります」

 泊まりの男性客は、部屋の外で待っても構わないから直ぐに消臭しに来いという。深夜の時間に掃除婦が通常ビジネスフロアに出向くことはない。チェックアウトまで外に出ることができないアメニティフロアと違って、部屋の出入りが自由なのでルームサービスでしか部屋へは行かない。堂上はどうやらフロントで外国人と話しているようだから長引きそうだし、食事のオーダーは他にも入っていたので、副支配人が戻ってきてもまた直ぐ出るだろう。掃除なら自分でも対応できる、と思い、それぞれ客対応しているからとインカムは使わず、メモ書きだけ残して掃除用具を取りに向かった。

 

 

「おい、笠原――」

 長い客の応対を終えて戻れば、そこに郁の姿は無かった。ラブホのルームメイクの指示は出していない。机に置かれたメモ書きを見つけると、「あの馬鹿っ!」と悪態をついてから、インカムを呼ぶ。

「笠原、聞こえるか?笠原!」

 外しているのか、応答がない。

「太田! 笠原がビジネスに入ったらしい。お前は下へ戻れ!」

 自分より一回り上の副支配人を呼び付け、堂上は直ぐさま上階専用エレベーターに飛び乗った。

 

 

***

 

 

「失礼します、清掃の者です」

 バケツの中に雑巾とアルコール消毒液、消臭剤のボトルをいれて苦情の入った部屋のベルを鳴らすと、客の男が扉を開けた。備え付けの浴衣を一枚、羽織っているだけのほろ酔いサラリーマンと言ったところか。電話の勢いほど怒っているようには見えなかった。

「この度は申し訳ございません、恐れ入りますが、外でお待ち――」

 丁寧に頭を下げてから面をあげると、とたんに腕を掴まれぐいっと室内に引っ張られた。オートドアロックなので、バタンと重みで扉はしまり、カチャ、とが掛かった。

 

「どこが臭いか、ちゃんと部屋に入って確かめて、お姉さん」

「はい」

 大概の人間はホテル清掃なんぞおばさんの仕事だと思っているはずだから、と油断した。少なくてもこの客は郁を若い女だと認識してる。

「ベッド周りが臭いんだよねぇ、ちゃんとそこに乗って匂い嗅いで?」

 腕を掴まれたまま、こんどはベッドの方へ体を放り出された。ほろ酔いどころか、この客は結構酔ってる……!?

 郁はそこで初めて身の危険を感じた。ずっと陸上をやってたから、脚には自信があるが、相手は大人の男だ。決して大柄ではないけれど、腕を掴んだ時の力も、引っ張られた力も全然違う。そう思っているうちに、郁の手を両手で抑え、体の上に男が腰を下ろしてきた。

 

「禁煙ルームなのに臭いとか困るよね? ちゃんと掃除できてないの、責任、とってくれるよね? きみが」

「やですっ!!」

 男を蹴り上げてやりたいのに、脚に乗られて動かせない。

「っていうか、デリヘルも呼べないビジネスとかあり得ないでしょ? だからお姉さんで我慢しようと」

 我慢しなくていいから、他所へ行けっ! と全身で叫びたいのに、恐怖で声が出ない。どうしよう……、抵抗しなきゃ、と思うのに涙が出そうになっているのが解る。助けて……誰か……、

 この先何をされるのか、怖くてぎゅっと目を閉じる。暗転の瞼の裏に浮かんだのは、仏頂面の……

 

 ドンドンドンッ!

「お客様! 失礼します、ルームメイクに問題があったとの事ですが、失礼してよろしいでしょうか」

慌てたような声色だが、言葉使いには神経を使われていた。

「ああ、もう済んだよ」

「申し訳ありません、現状を確認させていただきたい」

ドンドンドンッ

 

 今、声を上げれば、オーナーに届くはず……! だが、男は傍にあった枕を自らの頭を使って郁の顔に全力で押し付けた。腕は囚われたまま、相変わらず動けない。

 

「ですが、担当者が戻っておりませんので、申し訳ないがこの目で確認させていただきます」

 そう断ると堂上はマスターキーを使って扉を開け中へ飛び込んだ。

「笠原!」

 まさか中まで乗り込んでくるとは思っていなかったのか、馬乗りになっている男は抵抗する間も無く、堂上の拳にガツンと殴られ、ベッド横の壁に叩きつけられた。

「お客様、合意がなければ強姦未遂という事になりますが、それでよろしいですか?」

言葉こそ丁寧だが、語尾には怒りが込められていた。ポケットからスマホを取り出し、一一〇番へコールしようとした。

 

「やめろっ、俺はデリヘルでいいといってるのに、ダメだというお前らが悪いんだろう!」

「それなら他所でご宿泊願います、うちはシングルルームにはお一人様しか入れない規則になっておりますので」

 恐怖でベッドの上から降りれなかった郁に手を差し伸べ、ゆっくりと自分の懐に来るように促す。

「笠原、警察呼ぶか? 構わんぞ」

「……いえ、何も、されてませんから……」

 唇を噛み締め、恐怖と戦いながらぽつりぽつりと言葉を発した。堂上は自分の隣に立った郁をぎゅっと抱きしめて安心させた。

 

「申し訳ありませんが、宿泊料金は結構ですので、本日のところはお引き取りいただけますか? 聞き入れていただけない場合は、一一〇番の上、強制退去もいたしかたありませんが」

わ、わかった、と小声で応え、男は帰り支度を始めた。

 

 

***

 

 

 問題の客の部屋を出た後、堂上はインカムで副支配人に一旦自室に郁を連れて行く旨を伝えた。彼も業界は長い。郁に何が起こったかは恐らく想像できているかと思われた。事情聴取に使うから、何か在ればインカムしろ、と告げて、郁を一〇階へ連れて行った。

 

 

 マスターキーで開けた部屋に郁を入れた。カチャリとオートドアがゆっくり閉まり、ロックがかかる。堂上が随分長く定宿にしている部屋だと聞いていたが、服が少しとノートパソコンが置かれている以外、凄く綺麗に使われていて生活感がまるでない、むしろいつでもチェックアウトできそうなくらい。

 

 そこへ座れ、と言われた通りに、郁はベッドに腰をかけた。堂上は備え付けの冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターを郁に手渡した後、インカムで太田に九〇二号室の客の状況を説明して、十五分後にはチェックアウトさせろと伝えた。

 

 ペットボトルを開けてごくりと一口喉を潤した郁は、呆然とした表情で項垂れていた。気まずい空気が少し広めの小綺麗な部屋にそぐわない。

「……本当に、何もされなかったんだな?」

 堂上の再度の質問に郁は、コクリと頷いて下を向いた。

 

「申し訳、ありませんでした……」

 深夜帯にビジネスフロアに行かない、というのはこういう事なのかと身をもって理由を知った。行くな、と言われていただけでその深い意味なんて考えていなかった。ただただ、オーナーにも、副支配人にも迷惑掛けた、事件を起こしたことでクビになるのかもしれない、と居酒屋の時の失敗を思いだした。あの時はお客にされたセクハラで、思わず客を殴ってしまったのだ。

此処にも縁が無かったのか、と思ったら、ぽろぽろと涙が止まらなくなった。情けないなぁ、あたし。

 

 

***

 

 

 嫌な思いを、恐怖を味わったのは彼女だというのに申し訳ないと頭を下げる郁をみて愕然とした。

 どんな事情であれ、全ては総責任者である俺の責任なのに。

「怖い思いさせて、すまなかった」

ぽろぽろと泣き始めた、彼女をまたそっと抱き寄せた。安心させたくて、自分の温もりに触れさせたのだが、彼女は身を縮混こませていた。

「……あたし、やっぱり、クビですか……?」

「な?!」

 襲われた恐怖で身を縮めていたのではなく、クビになるかも知れないという恐怖で……なのか?!

 

「違う、俺の責任でお前に嫌な思いをさせて、俺はどう責任をとれば……」

「責任?!」

 責任をとるというのは自分のことですよね? 的なオーラで郁は堂上をみていた。

「お前にとっては貞操の危機だった訳で……」

「……いえ、それよりもベッドに投げ出されて組み敷かれるまで、自分が女だっていうことをすっかり忘れてまして……。っていうかあたしも女だったのか、と一瞬ちょっと嬉しく思って。いや、もちろんそれはほんの一瞬で、怖かったですよ! 男の人ってひ弱に見えても力あるんだっ、て」

「そこは覚えておけ! って充分女だろう!」

 きょとん、とした表情を見せる郁に小さく溜息をついた。これじゃあ、また同じ事があるかもしれない。いや、そんな事あっていいはずがないっ!

 

「なあ笠原、じゃあ、なんでお前は自分は『女』じゃないって思うんだ?」

「……だって、そういう対象に見られたことがありません。自分でもがさつな大女だと自覚してますし……」

「ならお前は『女だ』という自覚ができたら、気をつけられるのか?」

 へ? と、解らない顔をした郁の両手をそれぞれ重ねてから、堂上は噛みつくようにキスをした――

 

 

 

 突然唇を塞がれて、目が飛び出そうなほど驚いた。さっきの客にキスこそされなかったけど、拘束されている事には変わらず先ほどの恐怖が蘇りそうになる。だがその先が違った。強く掴まれたのは一瞬で、舌先で唇を軽く舐められて思わず瞼を閉じた。濡れた舌先はそのまま郁の咥内に入り込み優しい熱を与えていく。囚われたまま、為されるままのなのに気持ちがいい。身体の中から、何かが溢れるような感覚で熱くなる。

「……んっ、はぁ……」

 息の仕方がわからなくて継いだ口端から漏れた吐息は自分のものとは思えず耳を疑った。

 

「――お前の女の、声、もっと聞きたくなった」

 開放された、と思ったら耳元に低い声が落とされて、心臓が悲鳴を上げた。えっ、なっ、何――!?

 

「俺は怖いか?」

 怖くはない。堂上の与えてくれた熱は、凄く、凄く気持ちよくてふわりとした気分になれた。これが、女のあたし、なのだろうか、と。

 近づく堂上の唇を受け入れるように再び目を閉じた時、放り出されていたインカムから副支配人の声が微かに聞こえてきた。

 

『オーナー、九〇二号室の客が今出ました。どうしますか?』

 郁の様子を確認するために一○一九号室を使っていることは告げてある、応対しないのは不審を煽るというか、後でなぶられるというか……

 仕方なしに堂上は外したインカムを手にして口元に寄せた。

「ああ、ルームメイクは折をみて俺がするからそのままにしておけ」

『人出が足りてれば上がって貰っても構わないんですが、あいにく今夜は……』

 インカムの向こうの声は少し意味深な言葉をはらんでいることぐらい判る。

「判ってる、あと十分で戻る」

 

 会話を終えた堂上は郁の顔を正面から見つめて、郁の髪をそっと撫でた。表情は渋いままなのにその手は優しい。

「お前な、もう少し色々自覚しろ。此処を何処だと思っている?」

「えっ、っと、職場?」

「その前に完全な密室だ。合意があれば何してもいいってことだ、犯罪以外な」

 堂上の言葉はぐるぐると頭の中を回る。ごういがあれば。

 

――合意?!

 

「――俺に、合意する気があるのか?」

 向けられた真摯な瞳から視線を逸らすことができず、郁はその中に映る自分の表情をみる。ああ、あたしこのまま、瞳の中に囚われていたい、って顔してる。

 

――女らしくない、あたしが女みたいにされたいと思っているなんて。

 

 瞼を伏せて、無言でコクリと頷いた。

 再び堂上の顔が近づく気配を感じながら、優しいくちづけを受け入れる。

 

「今日はその気になるわけにいかんし、仮に時間があったとしても、自分が使った部屋のルームメイクなんてしたくないからな。時と場所くらい選ぶ」

 鈍い郁でも、それがどういう意味なのかは判った。

 

「ちょうどいい、勤めていた会社は今月いっぱいで辞める。来月からホテル経営に専念して時間ができる。敵情視察に行きたいと思ってたから、ライバルのホテルでたっぷり楽しむ事にしよう」

「へ!?」

 堂上の宣言に異を唱えることもできず、郁は真っ赤になる。え、あたし、オーナーのセフレとか、そういう事?! 未経験でそれはあまりにも……

「馬鹿、駄々漏れだ。俺にはそんな趣味はない。彼女、って選択はないのか」

ぽんっ、と頭に掌をおかれ、耳元に爆弾を落とされた。

 

「――好きだ、って言ってるんだ。二度言わすなよ?」

 

 照れたような言葉に驚き、目を開けると恥ずかしそうにそっぽ向いた堂上が目の前にいて。クールな人だと思っていたけれど、不器用なところもあるのかとちょっとそれが嬉しくなって、 衝動的に堂上の頬にちゅっ、とキスをした。あたしも好きです、の意を込めて。

 

「あんまり可愛いことするな、馬鹿」

 お返しとばかりに、堂上は再び郁の唇を塞ぐ。言葉にされて、唇にキスを受けて、ようやく愛を交わす為に密室で触れ合うラブホテルという場所の偉大さを実感した。

 

――そう、愛は此処にある。

 

 

 

 

fin

(from 20141012 / 20151207再録)

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