+ 慰めるため + キスの目的×5題 from 「妄想が暴走さ -苦難の中の力を私に-」 さやかさま
ご機嫌直してと言いたくて――
その日も課業後に堂上の見舞いに訪れた郁は、部屋に足を踏み入れてまず、昨日まではそこになかった物に視線を奪われた。
ベッドサイドのテーブルに乗せられたそれは、ふんわりと優雅な香りを漂わせ、明らかにその部屋の主とは違ったカラーを主張している。
表面上は笑顔を浮かべつつ、既に定位置となった枕元の椅子に腰を下ろした郁であったが、視線はちらちらとそれ――シックな色合いのバラなどで作られたフラワーアレンジメント――に向けられていた。
そんな郁の様子に気付かない堂上ではない。
「ああ、それな、今日の昼間、図書大時代の同期が見舞いに来た時に持ってきてくれた」
「……すごく素敵なお花ですよね」
「明らかに三十路男の部屋には似つかわしくないがな」
ちらりとその花に目をやってから、堂上は苦笑を浮かべる。郁はそんな堂上の言葉に返す言葉を考えながら、じっとその花を見つめた。
「そんなことないです。たまにはこういう綺麗なものもいいですよね。スミマセン、あたし、こういう心遣いできなくって」
へにょりと眉を下げ、情けないような顔をした郁に、堂上はポンポンとその掌を郁の頭に弾ませる。
「どうした、郁。今日は何かあったか?」
ん? と郁の表情を覗き込むように微笑んだ堂上に、郁は苦笑いに近い笑みを浮かべてみせる。そして、心の中に浮かんだ苦さを忘れるように、その日あった出来事を堂上に語って聞かせ始めた。
しかし郁の視線は知らず知らずのうちにその花に向けられていた。そして、言葉が途切れた空気の中に、軽い溜息が落ちる。
「――郁、何か気になってることがあるのなら言え」
堂上がじっと郁を見つめる。その視線の真っ直ぐさに、郁は心苦しさを感じてすっと視線を逸らした。
「郁」
責められているのではないということは、郁にも分かっている。ただ、郁はその胸に浮かんだどす黒い感情に慣れず、どう扱っていいのかが分からなかった。しかし、堂上の眼差しに負け、俯いて一瞬ぎゅっと唇を噛み締めてから口を開いた。
「……その、お花。お、女の人ですよね、持ってこられたの」
発せられたのは、普段の声とは比べ物にならないくらいの弱々しい声だった。堂上はやっと郁が抱えたものを理解し、苦笑を浮かべながら郁の顔を覗き込むようにして答えを紡いだ。
「確かに持ってきたのは女の同期だったが、ただの同期以外の何者でもない。お前が気にするようなことは何もない」
「でもっ、あたしにはない心遣いできる人なんですよね。そんな素敵なものを見繕えるような人なんですよね」
スミマセン、あたし、今日はもう帰りますっ。
ばっとおもむろに立ち上がって、郁は堂上が止める間もなく逃げるように病室を走り出ていった。
「郁っ!」
咄嗟に彼女を捕らえようと伸ばした手が、空しく空を切る。くっ、と堂上は未だすぐに動いてはくれない右足を、責めるように叩いた。
郁が恋愛沙汰の初心者であることは分かっていた。しかし、想いを通じさせてから今のところずっと、堂上は病院から出られずにいたので、郁に他の男が言い寄ることを心配すれど、郁が自分のことで嫉妬を感じるなどということは全く念頭になかった。
堂上にしてみれば、疚しいことなどこれっぽっちもない訳であるから、しっかりと郁を包み込んでその不安を拭い去ってやりたいところなのだが、いかんせん現在の状況がそれを許さないのがもどかしい。
返す返すも、郁が立ち上がった時に捕まえ切れなかったことが悔やまれる。
はぁ、と幾度となく溜息が零れ、郁を捕まえられなかった左手をぎゅっと握りしめていた。
翌日、面会時間が始まりを告げると、堂上はそわそわとドアを気にし続けた。郁は今日も来てくれるのか、不安で仕方がなかった。
今日の郁は通常勤務のはずだから、来るとしても夕方十八時以降である。そう分かっているにも拘らず、堂上の意識はドアの向こうを気にし続ける。
そんな中、軽いノックの音がドアから響いた。
郁か、と思ってみるが、その日は郁は通常勤務のはずであるので彼女が来るには早すぎる時間である。「はい」と返事をすると、姿を現したのは進藤である。
「よぉ、堂上。調子はどうだ?」
ニヤリと見慣れた笑みを浮かべながら入ってきた進藤であったが、その手が小さな子供を引き連れているのに堂上は気がついた。
「こりゃ俺の娘、すずだ。すず、これが郁おねーちゃんの彼氏だぞ」
進藤は傍らの娘に視線を落としながら、そう紹介する。
「郁おねーちゃんの彼氏って、病気なの? 郁ちゃんの王子様なんだから、病気なんてしたらダメなんじゃないの?」
訝しげな顔で進藤を見上げそう問いかけたすずに、進藤はぷっと吹き出した。
「我が娘ながら、ナイス突っ込みだ。堂上はな、病気じゃねーんだ。お姫様を守って怪我したんだ」
「進藤一正、間違った説明は止めてください」
むすっと仏頂面を二割増しにした堂上が、そう言葉を返す。しかし進藤はそんな応対にもどこ吹く風で、堂上に向かって言葉をかける。
「こいつな、児童室のイベントによく参加してるんで笠原のことがお気に入りなんだ。だから、今日お前の見舞いに行くって言ったら、笠原の彼氏を見てみたいって言うから連れてきた」
シシシといつもの引き笑いで堂上を見下ろす進藤に、堂上の眉間の皺は更に深まる。
「今日は郁おねえちゃんは来ないの?」
無邪気な目でそう堂上に問いかけるすずの言葉が、はっと堂上の意識にフラッシュバックを起こさせた。走り去る郁の背中に、捕まえられず空を切った自分の手。堂上の表情が苦く歪む。
そんな堂上の様子を、進藤が見逃すはずがない。
「お、もしや笠原と喧嘩でもしたか?」
面白いものを見たという顔でそう問いかける。堂上はふいと視線を逸らす。
「……別に喧嘩なんてしてませんよ」
「そんな苦い顔してるってことは、何かあったと言ってるようなもんだぞ」
「ケンカした時はね、ちゃんとゴメンナサイをしないとダメなんだよ。すずもね、こうたくんとケンカしちゃった時にはねゴメンナサイしたよ。それでね、こうたくんもゴメンねっていってこれプレゼントしてくれた」
すずはそう言いながら、持っていた小さなバッグに付けられたクマのぬいぐるみのストラップを見せた。堂上は面白いことを耳にしたと一瞬目を瞠り、確かめるようにすずに視線を向ける。
「こうたくんってのはすずちゃんの彼氏なのか?」
堂上がそう問いかけると、すずはにっこり笑って「うん!」と大きく返事した。
「――すず、彼氏がいるなんてお父さん聞いてないぞ」
娘の語った事実に目を見開いて、動揺を抑えきれずに進藤がそう言葉にすると、すずはあっさり「ママは知ってるよ」と返してくる。苦虫を噛み潰したような顔になった進藤に、堂上はニヤリとしながら声をかける。
「進藤一正、娘さんがモテて大変ですね」
「お前もいずれ分かるさ、この気持ちはよ」
苦笑いになりながらもポンと堂上の肩を叩いた進藤に、今度は堂上がほんの少し目を眇めた。
「で、お前は笠原と何喧嘩してんだ?」
「だから、喧嘩じゃないって言ってるでしょうが」
「でも、何かあったのは丸わかりだぜ?」
「……」
「郁ちゃんもこのくまさん好きだよ。だから、おじちゃんもこれ買って郁ちゃんにプレゼントしたらいいよ」
そしたら郁ちゃん喜ぶと思うよー
先程見せたクマのストラップを撫でながら、すずはニコニコと笑う。その邪気のない様子に、堂上は苦笑で応える。
「おーそれな、コンビニで売ってる菓子のおまけだぞ。この病院の中のコンビニにもあるんじゃねぇか? それ買って笠原の機嫌とれ」
いやー、我が娘ながらこいつは女子力たけーな。
クルリと円い瞳を輝かせながら笑う娘に視線を落としてから、進藤はニヤリと不敵な笑みを堂上に投げかけて立ち上がった。
「さ、すず、そろそろ行くか。まあ、堂上、いろいろ頑張れよ」
「うん、おじちゃん、ちゃんと郁ちゃんと仲直りしてねー」
バイバイ、と手を振りながらすずは進藤と病室を出ていった。
再び静寂を取り戻した病室で、堂上は考えた。
今の自分は、病院の中でしか動くことができない。だが、少しでも郁に喜んでもらえることがあるならば、それをしないということは今の堂上には選択肢としてあり得ない。
よし、と堂上はベッドを降りて、松葉杖をつきながら病院内のコンビニに向かった。
あんな幼い女の子の意見に従うのも微妙に情けない気もするが、郁が可愛らしいものが好きなことは、堂上も今までの経験から知っている。進藤は菓子のおまけだと言っていたので、普段はあまり足を踏み入れることのないスナック菓子の置いてあるエリアに足を踏み入れる。
目指すものはすぐに見つかった。どうやら最近の流行りものだったようで、コンビニにしては大きくスペースが取られて並べられた商品を一つ手に取って、レジに進む。それだけを買うのはほんの少し気恥ずかしいような気もしたので、ペットボトルの飲み物もついでに買う。
病室に戻り、さてこの問題の花はどうしようかと考える。
郁が目にすると気にするだろうからとにかく処分だとは思うが、折角未だ綺麗に咲いているのを捨ててしまうのも花に悪いような気がする。少し考えた末、堂上はナースステーションに足を運んだ。
「――すみません、お見舞いに花を頂いたんですけど、ちょっと匂いが気になるので談話室にでも飾って頂けないかと思いまして」
「あら、堂上さん。そうなんですね、なら取りに伺いますね」
顔見知りの看護士がすぐに立ち上がってくれた。松葉杖をつきながら自分でそのアレンジメントを運ぶことができなかったので、人の手を借りる必要があったのだ。尤もらしい言い訳を考えた末、匂いが気になるということなら余計な詮索はされずに済むのではないかと思い至り、早速実行に移した。
花は問題なく部屋から撤去された。
後は、郁が来てくれるのを待つだけだと、堂上は落ち着かない気持ちで午後の時間が過ぎるのを待った。
いつもならそろそろ郁がやってくるという時間になった。
堂上ができるだけ顔を出せと言って以来、郁はほぼ毎日のように見舞いに訪れていた。堂上が把握している郁の勤務スケジュールでは、今日は普通の日勤であるのでそれ程遅くならないうちにやってくるはずであった。
堂上はチラチラと時計を気にしながら、廊下に郁の気配がするのを待ち続けた。
――コンコン
控えめなノックの音が聞こえる。ハイ、と応えると、そろそろとドアが開き、遠慮がちな様子で郁が顔を覗かせた。
「――堂上教官、今日はお加減いかがですか?」
無事に郁の顔を見られたことにほっと安堵の息を吐いて、堂上は軽く笑みを浮かべて郁を招き入れる。
「悪くない。――よかった、今日も郁が来てくれて」
「今日は、教官も好きって言ってたチーズスフレ買ってきました」
そう言ってケーキの入った箱を冷蔵庫に入れた郁が、おずおずと定位置になったベッドサイドの椅子に腰を落ち着ける。
「……堂上教官、昨日のお花、どうしたんですか?」
昨日それがあった場所に視線を向けて、郁がほんの少し逡巡する様子を見せてから口を開いた。
「薔薇の花の匂いが少し気になったんでな。談話室に寄付した。――それに、お前も気にしてたみたいだから、そんなものはこの部屋には要らん」
「……! スミマセン、堂上教官。あたしのつまらないヤキモチなのに――」
「謝るのは俺の方だ。お前の気持ちを思いやってやれなくてすまなかった」
頭を下げた堂上に、郁ははっと目を瞠って堂上を真っ直ぐに見つめた。
「教官は全然悪くないです!」
声を上げた郁に、堂上はベッドサイドのテーブルの引き出しから用意しておいたそれを取り出した。
「こんな状態だからこんなものしかないが、お詫びの気持ちだ。お前、こういうの好きだろう?」
郁が差し出したそれを受け取ると、驚きに目を輝かせた。
「わ、ベアストラップ! 教官、あたしがこれ好きで集めてること、何で知ってるんですか!?」
「集めてるって、種類がいろいろあるのか?」
「そうなんです。一番お気に入りはこうやってキーホルダー代わりに付けて持ち歩いてるんですけどね」
郁が鞄から鍵に付けられたクマを取り出して見せる。確かに、先程すずが見せたものとは少し違っているようだ。
「いまやったそれが、お前が持ってるのとかぶってなければいいんだが」
堂上が少し心配になってそう口にすると、郁は早速それを確認するために封を開ける。
「あぁっ! これ、ずっと捜してたやつだ!!」
出てきたのは、首が横を向いた、見方によってはそっぽを向いているような形をしている。
「そっぽくんっていうんです、これ。とってもレアなんですって。あたしも本物は初めて見ました」
「そうなのか。それならよかった」
郁が嬉しそうにそのクマを自分のものと並べて、自分の脇にある窓際のテーブルに置いた。
しかしすぐにはっと何かに気付いたようにその二つのクマを握り締める。
「どうかしたか、郁?」
「……あたし、こんな子供っぽいおもちゃを嬉しそうに並べちゃって――。ガキっぽくてごめんなさい」
シュンと俯いて郁が呟くように漏らしたその言葉に、堂上は苦笑した。
「謝ることあるか。俺は、お前が好きだろうと思ってそれを買ったんだ。寧ろ喜んでくれた方が嬉しいぞ」
「――ほんとですか?」
「ああ」
ぽんと郁の頭に掌を弾ませてやると、郁は上目遣いで堂上の様子を窺う。堂上が微笑んでやると、郁も情けなさそうな笑みを浮かべた。そして、もう一度二つのクマを元の位置に置き直した。
「郁、こっちに来い」
堂上がポンポンとベッドの自分の隣のスペースを叩く。郁は未だ慣れないその位置に、頬が茜色に染まるがやがておずおずと腰を上げて堂上の隣に移動する。堂上はすっと郁の肩を抱き寄せ、くしゃりと彼女の髪を掻き混ぜながら頭を自分の肩に凭れかけさせる。
「お前がヤキモチ焼いてくれるのは嬉しくない訳じゃないが、昨日みたいに出ていかれたりすると凹むから出来たらやめてくれ。そもそも疚しいことなんて一つもないんだから、信じろ」
「――ハイ。ごめんなさい、教官」
夏の遅い夕暮れが、堂上の病室の中にも訪れていた。窓から差し込む西日に、部屋中が暖かなオレンジに染まる。
「あ…!」
「どうした、郁?」
「ベアストラップの影が――」
西日に照らされて、二匹のクマの影が病室の白い壁に大きく映し出されていた。隣同士に並んだそれは、一匹のクマにもう一匹が横からキスをしているように見える。
「そっぽくんがあたしのベアちゃんにキスしてるみたい」
「クマが慰めるためのキス、か」
堂上が苦笑を浮かべながら、そんな言葉を声に乗せた。そして、そっとその手を郁の頤に添える。郁との距離を縮めようと肩を抱く手に力を込めると、郁ははにかみながらもそっと瞳を閉じて堂上の温もりを待った。
暫し静かで熱いひと時が流れていく。
「――クマだけにキスさせておくのもなんだしな」
二人の間に再び距離が戻ってきたとき、堂上がぶっきらぼうにそう呟いた。
その言葉に、郁は再び頬を茜色に染め上げながらもニッコリと微笑んだ。
fin.
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