+ おくさまは18歳 31 +  パラレルSS/にゃみさまのターン

 

 

 

 

 


「おかえりなさい!」
ドアを開けると郁の明るい声がした。続けて、パタパタとこちらに向かってくるスリッパの音。
「試合が早く終わったから急いで帰ってきたんだよ。篤さんはどっか行ってたの?……ってあれ、スーツ?今日休みじゃなかったっけ」
「ああ、急に呼び出されてな」
堂上は言葉少なに答えた。

郁はまだ帰っていないと思っていた。なのに、自分の帰りを待っていてくれていた。
郁に内緒でどこかの女性と食事をして申し訳ないと思うと同時に、郁の顔を見られてほっとする。
とにもかくにも、見合いのことは方がついた。悪いという気持ちはあるが、これで郁に嫌な思いをさせずに済んだのだ。

「篤さん……?」
郁の肩に寄りかかるように額を落とす堂上に、郁は少し驚いたようだった。
「どうしたの?疲れたの?」
「……ああ、ちょっとな。いつもの、してくれるか?」
「うん」
郁はやはりまだ照れくさそうに堂上の頬にキスをした。そうされると、郁のもとに帰ってきたという実感が湧いてくる。
「夕飯作るまでにはまだ時間あるな。……二人で寝室にでも行くか?」
「……篤さん、元気ないんじゃなかったの?」
郁は少し困ったような顔をする。
「郁の顔見たら、そんなの吹き飛んだ」
そう言って郁を抱き上げると、郁は堂上の首にぎゅっと手をまわしてくれる。

その日、堂上は夢中になって郁を抱いた。






結婚してからずっと、買い物は堂上の公休の日にまとめてか、或いは郁が学校の帰りに買ってくるかだ。今日は久しぶりに練習がなく授業も早くに終わったので、郁は意気揚々と買い物に出かけた。今日の夕飯どうしようと考えるのはいかにも奥さんという感じがして、郁にはまだ楽しいことだ。
「そういえば、記念日の日は何作ろうかなー」
自分が作れる一番おいしいものは何だろうと郁は考える。
もうすぐ郁が茨城で堂上に助けられたあの日が来るのだ。その日も帰りは早い予定なので、何かいいものを作る予定でいる。とは言ってもそんなに豪勢なものは作れないので、結局お店のケーキが一番のご馳走になるだろうけど。
もう堂上と出会って一年かと思うと郁の顔はニヤけた。でもすぐにここが外であることを思い出し、顔を引き締める。

「それよりも今日のごはんっと……」
冷蔵庫の残りと自分のレパートリーを照らし合わせて考える。今朝堂上に何が食べたいか聞くと、郁が作るものなら何でもいいと笑ってくれた。けれど―――
「最近篤さん疲れてるみたいだからなー」
少しでも元気になるようにおいしいものを作ってあげたい。
精神的なもの、なのだろうか。堂上はここのところ疲れた顔で帰ってくることが多い。そして、堪えきれないように郁のことを抱きしめるのだ。
「やっぱりこういう時はお肉かなあ」
郁の思考は単純だ。時間があるので今日はハンバーグにしようと決める。二人で食べ切れるのかというほどの材料を買って、ついでに堂上の好きなビールを買う。
「重い……」
図書基地に帰りついたころには腕が痛いぐらいだった。でも篤さんのためだもん。そう思いながら官舎の部屋へ向かう。


「あら、郁ちゃん」
顔を上げると、声をかけてきたのは中田三監の奥さんだった。隣には歳の頃は堂上と同じぐらいか、上品そうな女の人がいる。
こっちの人は初めて会う人だよね。
顔覚えの悪い郁としては夫の職場の人に失礼がないかとそればかり気にかかる。初対面の人だとは思うがいまいち自信がないので、郁は曖昧に二人に会釈をした。
「郁ちゃんは堂上さんの妹さんなのよ。二人で官舎に住んでいらして」
「あ、はい」
中田夫人に紹介されるということはやはり初対面の人ではあったらしい。堂上とは知り合いではあるようだが。
「郁ちゃん、こちらこの間堂上くんがお見合いされたお嬢さんよ。今日は図書館に遊びにいらしてて」
「……お見合い?」
郁は呆然と中田夫人を見つめた。今の言葉だと堂上が見合いをしたように聞こえる。でも、そんな話、郁は一言も聞いていない。
「あら、堂上君話さなかったの?恥ずかしかったのかしら。もっともお見合いは二人ともその気がなかったから、もう終わった話なんだけどね」
中田夫人は少し残念そうな顔をする。横の女性は申し訳なさそうに頭を下げてから、ふと気付いたように郁に話しかけた。
「あ、今日私がここに来てたことも内緒にしといてくださいね。今日は中田さんにお礼をいうついでに図書館にもと思ったんですけど、堂上さんは図書館には来てほしくなさそうでしたから」
好きな人がいるっておっしゃってたけど、きっと図書館の方なんでしょうね。そう言って、その女の人は楽しそうに笑う。
「あら、そういうことだったのね。それは悪いことしちゃったかも知れないわねえ」
でももう終わったことだからいいかしらね。中田夫人もそう言って笑ったが、郁は表情を緩める気にもなれなかった。堂上が世話になっている人の奥さんなのだから、せめて愛想笑いぐらいはしないとと思う。けれど―――
「夕飯の準備があるので私はそろそろ……」
郁はぺこんと頭だけ下げて、逃げるようにその場を去った。





ダイニングの椅子に座って、郁はただ考え込んでいた。
夕食の材料はかろうじて冷蔵庫に押し込んだが、到底作る気にはなれない。

―――あたし、何にも聞いてない。

どうして?
その思いだけがぐるぐると郁の頭の中を回る。

堂上が見合いに行ったのなら、それは郁が大阪から帰ってきたあの日曜日のことだろう。そういえば、あの日の堂上はいつも仕事に行くときより少しだけいい格好をしていた気がする。
ひどく疲れた様子に見えたのも、そう考えると辻褄が合う。
中田は以前堂上の上司だったと聞いた。今はそうではないが、きっと世話にはなったはずだ。だから、仕事だからどうしても断れなかったのかも知れない。

―――じゃあ何で話してくれなかったの?
郁の思考はそこを堂々巡りした。
仕事のことで仕方なかったのなら、そういうことなら、あたしだって承知できたのに。
そんなに子供じゃないのに。
堂上は自分のことをそんなに信用してくれていないのか。
そう思うと、何も話してくれなかったことにも、黙って出向いたことにも不信感が募る。

堂上の様子がここのところおかしかったのはこのためだったということは、容易に想像がついた。
けれど、何もやましいことがなかったのなら話してくれれば良かったのだ。

もしかしたら、あたしみたいな子供より、あんな大人の女の人と話せて楽しかったのかも知れない。
そんな卑屈な考えまでもが頭をもたげてくる。





堂上は今日もあまり楽しくない気分で仕事を終えた。
堂上の頭を悩ませるのは言うまでもない、ただ郁のことだけだ。

見合いのことは終わったことだとあの日は割り切った。
でも、何も知らない郁の安心しきったような顔を見るにつけ、黙って見合いに行ったことへの後悔が募り始めた。
話さなければと何度も思った。けれど、いざ話そうとすると、郁に泣かれたくないという気持ちが先に立ってしまう。そして、話すことはそうやって謝罪をしたい自分の自己満足なのではないかという思いも出てきた。
何もなかったのだから、郁は知らないままでいるほうがいい。
そう考えて、もやもやした気分を振り払おうとした
けれど、罪悪感は消えていかない。


そしてもうひとつ、福井のことについても聞きたかった。
見合いの翌日、やはり事務室で堂上の見合いの話題が出た。さすがの先輩方も郁の話は出さなかったが、福井はやはり気まずそうにしていた。
郁と福井の間でどんな会話があったのか、例え結果は知っていても堂上は郁の口から聞きたかった。
けれど、自分にも負い目があるという思いから、何もそれについては触れられずにいる。



郁は大事なことを自分に話してくれなかった。それと同じように自分も郁に話さねばいけなかったことを話せなかった。
郁との間にどうしようもない距離が開いてしまったように感じて、堂上はただ郁を求めた。一ミリだって離れていたくない。ただそう思って。





家に帰ると、おかえりの声は聞こえてこなかった。
今日郁の帰宅は早いはずだが、夕飯を作っているような匂いも音もしない。
「ただいま」
とりあえずそう言いながら堂上は部屋に入る。

もう薄暗くなっているダイニングの椅子に郁はただ座っていた。
「どうした?」
尋常ではない様子に堂上は心配げに声をかける。すると郁は堂上を表情のない顔で見つめて言った。

「篤さん、あたしに何か隠していることない?」

 

 

 

 

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(from 20121210)